Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

☆「掌中の葉」(翻訳文)3-19

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

一、涅槃の意楽の具足

1、等正菩提

2、パーチェカ菩提

3、声聞菩提、すなわち、阿羅漢(漏尽者)、アナガミ、サカダーガミ及びソータパナ。

《清浄道論・第三章・第128段》

もし、あなたがすでに修行を開始した、一人の修行者であるならば、上記の概念はすでに、あなたの心中にしっかりと、植えつけられているはずである。

しかし、多くの修行者は、なぜ修行するのかと問われても、満足できる答えを返す事ができない。

彼らは、あなたに、(+修行するのは)心内の苦痛を解くためだと訴えるが、このことは、彼らがいまだに、非常に強力な、涅槃の意の楽を擁していない事を、意味する。

《相応部・縁相応・第23経》《Upanisa Sutta》において、仏陀は、因縁を断惑する順正の次第とは以下の通りであると言う:

「苦ー信心(=確信、納得)ー愉快ー喜悦ー軽安ー快楽(=楽しい)-定ー如実智見原文ママ」。

このことから、我々は、あなたが本当に、苦とは何かを知った時にのみ、あなたにおいて、心の底からの信心が生まれ、強力な信心が生まれるとき、愉快、喜悦、軽安、快楽もまた、正順に従って生起する(+という事が分かる)。

しかし、多くの修行者は、非常に悲観的であり、彼らは修行において、精進心を発揮することができず、己の性行(=性格と行為)を改めることができない。たとえ彼らが、世間とは苦であると、知ってはいても。(3-20につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>

まで。ご協力、よろしくお願いいたします。

<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

☆「掌中の葉」(翻訳文)3-18

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

仏陀がこのように述べたので、(+その時)既に聖者となっていたヴィサーカーは、二度と悲しむことはなかった。

彼女(+の心)は迅速に回復した。

というのも、彼女の残りの煩悩は、彼女が少なくとも、彼女をして、7回欲界に生まれるだけのものしか、なかったが故に。

まず最初に、我々は、ただ仏陀だけが、完璧な天人師であると、認める必要がある。

もし、我々の福徳が非常によいのであるならば、我々は仏陀と同じ世代に生まれ、仏陀から直接教えを受け、阿羅漢果を得ているはずである。

しかしながら現実において、我々はなぜ、今の世を生きているのであろうか?

それは、我々の福徳が、仏陀を指導者として仰ぐには、足りていないからである!

故に、我々が、たとえソータパナ聖者を指導者として仰いだとして、それは非常に幸運なことなのである。

ソータパナとは何かーー彼はこの娑婆世界の中においては、生まれ変わって、欲界に来るのは、最も多くて7回である。

この事は、彼の心の(+エネルギーの)流れの中に、欲界への執着が残されていることを意味する。

がしかし、あなたと、どの点が異なるであろうか?

彼とあなたの、そのうちの差異とは、彼の欲界への執着は7世で終わり、あなたの執着は限りがない、ということである。

故に、霊的な修行においては、あなたはあなたのソータパナ教師から、相当に落後しているのである。

彼は時には、いまだ心が傷ついたり、沮喪したりするけれども、この傾向は非常に少なく、めったには見られない。

このようなことから、教師に対して、外観だけで判断してはならない。表面的には、彼らもまた一般の人間と変わらないようであっても、しかし、心霊の上においては、彼らはあなたよりはるかに超越しているのであるから。

◆結論:

(一)完璧な学生だけが、完璧な教師を得る資格がある。

(二)教師の外観と挙動をもって、教師の思想と、彼の修行のレベルを、判断してはならない。

良い学生の素質

良い学生の素質とは何か?

良い学生の素質とは、以下を含む:

(一)涅槃の意楽の具足:これら涅槃の意楽は、細分すると6種類の行相になる(第128段)。

(二)定(と涅槃)の勝解(=正しい理解)の具足(第129段)

(三)己の仏世尊への貢献(=捧げる事)

(四)導師へ己自身を捨施する

(五)学生(+の本分)として、大小の任務を履行する(第71段)。《清浄道論・第三章》

(3-19につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>

まで。ご協力、よろしくお願いいたします。

<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

 

是誰庵のひとやすみ~ハコミ・セラピー

昔、大学でユングに出会ったとき、非常に興味を持ちましたけれど、深く研究するまでには至りませんでした。

英語が苦手な私、ユング心理学に使われる、アニマ・アニムスとかのカタカナ用語の洪水が、どうも今一つ・・・でした(西洋の自我の立て方と、東洋のでは異なるので、今一つピンとこなかったのも理由の一つ)。

最近、また心理学に興味が湧いたので、図書館で<トランスパーソナル心理療法入門>という本を借りてみました。

その中で<ハコミ・セラピー>の文字が、目に飛び込んできました。向こうから呼んでくれている感じ、こういう時は、絶対、相性がいいです(笑)。

まず、アメリカの心理療法なのに<ハコミ>って?

「これって絶対ネイティブ・アメリカン(インディアン)の言葉だね!」って、私、ピンときました。

そして同時に、若い頃に読んだ彼らの思想・哲学に纏わる、色々な話を思い出しました。

特に強く心に残っているのは、彼らは夜見る夢を非常に大事にしていて、昼間の行動は、夜見る夢から判断して決断する、という部分。日本では、禅宗の僧侶明恵さんが、夜見る夢を細かく記録して、己の心の成長に資したと言われています(『明恵夢を語る』河合隼雄著)。そう、深層心理、潜在意識って大事、なんですよね。

インターネットで検索してみると<ハコミ>ってインディアン・ホビ族の言葉で<Who are you>って意味。

ということは、私の庵の名前<是誰庵>と同じ。

<ハコミ>は、仏教やラマナ・マハーリシとも通じている。だって、ラマナ・マハーリシの口癖は<Who aer you?>だったのですから。

<ハコミ>勉強してみようかな。

ちょとワクワク。

 追記:

1、アメリカ発祥の<ハコミ>もご多分に漏れず、カタカナ用語の雨あられ(フォーカシングとか、ラビング・プレゼンスとか)。こりゃ頭痛いですけど、でも、日本語に置き換えたらどうなるだろうか?仏教の瞑想と、どう関連しているだろうか?というクイズを、楽しむこともできそうです。

2、<ハコミ>のワークショップ受講費を調べてみたら、非常に高価。スピリチュアル系って、なんでこんなに高いお金を払わなければ学べないのか?「自分が高いお金を払って(留学して)学んできたのだから、教える時に代金回収!?」。私が日本のスピルチュアルが好きになれないのは、こんな所。

トランスパーソナル心理学は、正統な、れっきとした学問で、スピリチュアルとか啓発系とは関係がないけれど、どうしてもスピ感が抜けない。日本では、いまだトランスパーソナル心理学が定着してないのが一因?)

 

パオ・セヤドー講述「顕正法蔵」(翻訳文)5-76

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

同様に、比丘たちよ。

ここにおいて、ある愚鈍な比丘が、行き先への知識がなく、また、欲楽からの完全な遠離、不善なる法からの完全なる遠離がないまま、尋、伺、喜、楽及び静寂で楽の生じる初禅に入り、安住する。

彼は、当該の相(ここでいうのは、安般念の似相である。本書の初めに解説済み)を、重複し(+て体験し)ないし、それを進展・強化も育成もしようしないし、正確に確立させようともしない。

彼は思う:『尋と伺を取り除いた後、私は尋と伺がない、心の内に確信のある、心の専一した、喜および静寂によって生まれる楽(+である)第二禅に入り、安住したならば、どうであろうか?』

彼は、尋と伺を取り除く事ができず、尋と伺の無い、心の内に確信のある、心の専一した、喜および静寂によって生まれる楽(+である)第二禅に進み、安住することができない。

その時、彼は思う:

『欲楽から完全に遠離し、不善なる法からの完全に遠離し、尋、伺、喜、楽及び静寂で楽の生じる初禅に入り、安住しよう!』

彼は、完全に欲楽から遠離することはできず、完全に不善なる法からの遠離することはできず、尋、伺、喜、楽及び静寂で楽の生じる初禅に入り、安住することはできない。

この比丘は、この二者の間で滑落し、落下した人、と言われる。

それはちょうど、愚鈍な牝の野生牛が行先の知識なく、また、多くの崖のある山を歩く方法を知らないのと同じである・・・」

(≪増支部≫)

こうしたことから、あなたは先に、初禅に関する、すべての五自在を掌握しなければならない。

故に、あなたには、初禅に安住する時間が不断に増加するよう、(+努力)していただきたいのである。(5-77につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>

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<パオ・セヤドー「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

パオ・セヤドー講述「顕正法蔵」(翻訳文)5-75

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

「比丘たちよ。たとえば、一頭の愚鈍な牝の野生牛が、行先への知識がなく、危険な崖のある山の中を歩く事にも慣れていないとする。

彼女は想う:『私がこれまで行ったことのない方角へ行き、これまで食べたことのない草を食べ、これまで飲んだことのない水を飲んだらどうだろうか?』と。

前足がいまだ、きちんと地面についていない前に、彼女は後ろ脚を上げた。この時、彼女は、彼女がこれまで行ったことのない方角へ行くこともできず、これまで食べたことのない草を食べる事もできず、これまで飲んだことのない水を飲むこともできないし、彼女が以前『私がこれまで行ったことのない方角へ行き、これまで食べたことのない草を食べ、これまで飲んだことのない水を飲んだらどうだろうか?』と考えていた元の場所にも戻れない。

どうしてか?

というのも、その牝牛は、愚鈍であり、行先への知識がなく、また、多くの崖のある山道を歩く事にも慣れていないのだから。

(5-76につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>

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<パオ・セヤドー「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

☆「掌中の葉」(翻訳文)3-17

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

学生たちは、彼らの教師の様子をみて、心を痛め、意気沮喪し、教師は彼らと同じ凡夫であると断定し、教師への尊敬心を、喪失することがある。

聖者であっても、心を痛めるということがあることを、

仏陀の聖弟子伝≫の中に、ヴィサーカーの話が載っている。

ある時、ヴィサーカーは、真昼間の熱い日差しを受けて、世尊に会いに行った。

というのも、いつも彼女が食べ物を布施するときに手伝ってくれていた、心から愛する孫のダッターが、突然この世を去ったが故に。

彼女は、世尊に己の悲しみを訴えた所、世尊は、彼女が舎衛城に住む人民の数くらいの子孫が欲しいのかと尋ね、彼女は愉快そうに、同意した。

「しかし一体全体、舎衛城では、毎日どれくらいの人が死んでいるだろうか?」と世尊は訊ねる。

彼女は少し考えてから、答える:

「世尊。舎衛城では、毎日、9・10人、3・5人、または二人、少なくとも一人は死んでいます。舎衛城では、毎日、誰かが死んでいます。」

世尊は、このような状況であったなら、彼女は悲しまないだろうか?と尋ね、彼女は、このような状況の下、自分は毎日、悲しまずにはいられない、と正直に認めた。

世尊は言う:

100人の愛する人がいたならば、100個の悲しみが生じる。90の・・・5・・・4・・・3・・・2・・・1人の、愛する人がいたならば、90個の・・・1個の悲しみがある。

そして、愛する者のいない人には、悲しみは、ない。

私は、ただこのようにでしか、憂、悲、苦、悩を乗り越えられない、と言う。

≪優陀那・8:8≫

(3-18につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>

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<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

 

 

 

是誰庵のひとやすみ~パイナップルリリー

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     ↑ <パイナップル・リリー>の蕾

一か月ほど前に、ホームセンターで<パイナップル・リリー>の球根が売られていました。

以前、我が家に送られてきた種苗会社のパンフレットで見たことがあって、「あ、これこれ!」という感じで、お買い上げ。

その球根を鉢に埋めておいたら、芽が出て葉が出て・・・私、園芸ヘタレなので、花は咲かなくても、葉っぱだけでも楽しめれば、な~んて思っていたのですが、今朝、葉っぱの芯の方を覗いてみて、あら嬉し!パイナップル状のお花の赤ちゃんが!!

青色のキキョウも涼しげに、次から次へと咲いてくれているし、ヴォサノバ(枝垂れベゴニア)も三年目の今年も無事茎を伸ばして、赤い花を咲かせてくれたし、庭のカサブランカは一茎に12、3輪の蕾を付けて、むせかえるような香りを放ってくれているし・・・<緑の手>を持っていた祖母には遠く及ばないけれど、私も、少しずつでいいので、お花と会話ができるようになりたい。