Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

☆「掌中の葉」(翻訳文)3-25

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

六種類の行相

六種類の意楽は、諸々の菩薩の菩提を成熟させる:

無貪の意楽を通して、諸々の菩薩は貪欲の禍を見、知る。

無瞋恚の意楽を通して、諸々の菩薩は瞋恚の禍を見、知る。

無痴の意楽を通して、諸々の菩薩は愚ろかさと無知の禍を見、知る。

出離の意楽を通して、諸々の菩薩は在家の禍を見、知る。

独居の意楽を通して、諸々の菩薩は群居の禍を見、知る。

解脱の意楽を通して、諸々の菩薩は一切の生存界の禍を見、知る。

《清浄道論・第三章・第128段》

上記は、諸々の菩薩の菩提ーー等正菩提ーーを例にとって、意楽について述べた。

しかし、この六種類の意楽の行相は、パーチェカ菩提と声聞菩提行者にとっても、同様に、極めて重要である。

実際、行者の一人一人は、修行における意楽を啓発する必要があるし、修行者の修行の進展の度合いは、彼らの意楽に関する、純度と強度によるものである。

多くの人々は、意楽を激発して修行に取り組んでおり、故に、外から見ると皆同様に見えるが、しかし、実際において、彼ら銘々における、意楽の内的な素養は、その差異が、極めて大きい。

故に、ここにおいて、あなたがこのような意楽を具足して修行するならば、あなたが戒・定・慧を育成するための修習、また、最終的に涅槃を証悟するための、すべての修習に関する念願は、詳細には、六種類の行相に分類されるべきである、という法話を紹介した。

(2-26につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>まで。

ご協力、よろしくお願いいたします。

<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

☆「掌中の葉」(翻訳文)3-24

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

【引証三】:転輪王が享受する快楽(=楽しさ)--

《長部第26経・転輪王獅吼経》

転輪王は七宝を擁している。

すなわち;輪宝、象宝、馬宝、摩尼宝、王女宝、侍従宝、参謀宝である。

またその上に、1000人の英雄無比なる息子たちがいる。

故に、彼は権力、富、感官の享受などの、一切の塵俗における快楽の方面において、頂点に到達している。

転輪王は智慧を具有し、いつ当該の善を行えばよいか、いつ、引退すればよいか、如何に国家を統治するべきか、如何に修身し、性を養うべきかなど等を知っている。

転輪王は定力があり、彼は静室に入った後、自在に、慈・悲・喜・捨の四無量定に入ることができる。

しかし、彼が、このようであっても、転輪王の快楽は依然として、初果聖者の16分の1にも及ばない。

証悟の快楽(=楽しみ)の、如何に殊勝であることよ!

◆結論:

中道正見とは、すなわち、(+ものごとの)一体の内の、二面性における真理である:

苦を知り、苦を終わらせる。または、苦を離れて楽を得る。この二者において、一方を欠けることはできない。

(3-25につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>まで。

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<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

是誰庵のひとやすみ~檀家制度の廃止

昨日インターネット上のニュースで、埼玉の某寺院が檀家制度を廃止し、自由意思に基づく、自由参加型の「信者制度」を採用し、制度転換をした、という話を読みました(これは成功して、信者が増え、檀家時代よりも葬式も法事も忙しく、収入は 4 倍増だそうです)。

檀家制度というのは、日本独特のもので、江戸時代、どこの家庭も、(自分の信条とはおかまいなしに)どこかの寺院に強制的に属し、出生と死亡とお墓の管理は、一貫して、寺院がやっていたのですが(過去帳の管理)、これは、お寺が役所の代わりをしていた訳で、明治維新によって、西洋型行政手法が普及したため、都市化や核家族化と相まって、檀家制度に守られて、檀家からお布施を頂き、過去帳(戸籍)を管理していたお寺が衰退するのは、当たり前のように思います。

私が出家した、緬甸(ミャンマー)や、またタイ・スリランカ南伝仏教では、檀家制度というものはありません。

ただ、自分が尊敬できる、または好ましいと思える僧侶を、自力で見つけてきて(知人、友人からの紹介もあるかもしれませんが)、その僧侶の法話を聞き、自分に見合った修行方法を授けてもらう・・・僧侶の嫌な面を見て、嫌いになったら別の僧侶を探す・・・、そういう関係です。

ですから、たとえばタイなら、尊敬できる、好きな僧侶に会うためには、休暇をもらい、飛行機に乗って、そのお寺のある地方に出かけたりもします。

上記の寺院が、思い切って檀家制度を廃止したのは好ましいことだと思いますが、しかし、戒名に関する改革については、「今後は、金額が曖昧なお布施形式ではなく、明瞭会計とし、戒名をつけた場合、お一人〇〇万円頂戴します」との事。

しかし、そもそも、戒名は、死者につけるものではなく、戒を守ると誓って出家した比丘、比丘尼に、戒師(出家の儀式を取り仕切った和尚)がつけるものです。

戒名とは、インドには2500年の昔から、四姓差別があるため、出家者同士、世俗で使っていた名前から身分の高低を忖度して、相互に差別しないように、出家した時につけて頂く、サンガ内で使う<あだ名>です。

南伝では、戒師は出家者に戒名をつけても、お布施など要求しません。戒名は、決して売買の対象にはなりえないのです(死者に戒名をつける不合理性を止めない限り、日本の仏教は葬式仏教と揶揄され続けるでしょう)。

また上記の寺院は、「これからのお寺は、経営上手でなければならない」と言っていますが、本来サンガ・寺院は、出家者の出離の受け皿、また出家と在家が共に修行する切磋琢磨の場であり、<運営>はしても、<経営>するものではありません。

現在、日本の仏教界は、諸々の複合的理由から、衰退の一途をたどっていて、それぞれの寺院が、起死回生の道を探っているのでしょうが、仏陀の教えた<仏法>は、<経営>とは水と油、全くなじまない事に気が付いてほしいと思います。

 

☆「掌中の葉」(翻訳文)3-23

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

【引証二】:転輪王の快楽(=楽しさ)は、初果ソータパナの 16分の1 にも及ばないーー《相応部・大品・ソータパナ相応・経一》

転輪王は、人間世界において、四大部洲を統治し、権勢は頂点まで達し、死後、忉利天に生まれて天神になり、多くの天女が随伴し、天界の勝れて妙なる五欲の楽を楽しむ。しかし、仏陀は言う:彼の楽はソータパナ聖者の16分の1にも及ばない。

(3-24につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

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<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

 

☆「掌中の葉」(翻訳文)3-22

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

【引証一】:証悟の楽ーー《律蔵・小品・第七破僧犍度》

釈迦族の跋提王は、仏陀の膝下で出家した後、一回目の雨安居の期間中で阿羅漢果を証得し、三明具足した。

その後、跋提比丘は林の中、木の下、静かな空き地にいて座禅・瞑想している時、往々にして感嘆の声を上げた:

「とっても快楽(=楽しい)だ!とっても快楽だ!」。

他の比丘たちは、その原因が分からない為、彼が王様であった時の楽しさを、憶念しているのだと誤解し、故に、仏陀に報告した。

仏陀が問うと、跋提比丘は、証悟した後、心内において体験した無為と安楽が、世間において王様であった時の快楽(=楽しさ)から、遠く超越しているものであった為に、このような讃嘆の声を上げたのだ、と説明した。

このため、仏陀は感じ入って、以下のように述べた:

心内において憤怒の無い者は、

このように有と無を超越する。

彼は無畏で、安楽で、無憂であり、

諸々の天神も、彼を見ることができない。

 

このことから、証悟は、極めて大きな快楽を齎すことができる事が、分かるのである。

(3-23につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

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翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

☆「掌中の葉」(翻訳文)3-21

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

世俗の生活も、同じことである。

我々は、富、権力、家庭が快楽(=楽しさ)を齎すことができると思い、故に、発奮して、真面目に仕事に取り組む。

多くの人々は、徒弟の苦労もいとわず:食べ物も質素で、ベッドも粗末で、毎日の勤務時間は10時間から12時間に達する(+のに、それでも働く)。

彼らは肉体的には非常に辛いものの、精神的には楽しいものなのである。というのも、一切(+の苦労)は、将来の楽しさに、変換されうると思うが故に。

彼らが、これらの苦痛を楽観的に受け入れる時、徐々に経験も増し、貯蓄も増え、ある者はトラックを買い、運送業を始める。

暫くして、彼は更にお金を稼ぎ、店を開いて商いをする。

また暫くすると、彼は工場を買い取って、部品製造業を始めたりする。

同様に、修行の道筋において、あなたが愉快な心を持って、涅槃を体験・証悟することが、真正で究極な快楽(=楽しさ)であると知りさえするならば、あなたは愉快な心をもって、修行の途中に出くわす一切の苦労と苦痛を、克服することができる。

徐々に、修行の体験が多くなる時、あなたは喜悦、軽安、快楽(=楽しさ)を生起させることのできる秘訣を、掌握することができる。

引き続き、不断に修行するならば、次には一歩進んで、自在に入定できる等の秘訣を、掌握することができる。

このように継続して努力するならば、あなたは最終的に、如実智見原文ママを得ることができるし、己自ら、涅槃の至楽の境地を、証悟することができる。

(3-22につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

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翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

☆「掌中の葉」(翻訳文)3-20

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

どうして、彼らは、精進心を発揮できないのか?

彼らにどのような問題があるのか?

彼らの問題は、彼らがいまだ徹底的に、苦とは何かを知りえていないという事である。

仏陀は言う:

「私はただ一つの事を教える。(それはすなわち)苦及び苦の終息である。」

興味深いのは、あなたは、苦と苦の終息は、二つの出来事だと考えているかも知れないけれども、では、なぜ、仏陀はただ一つの事しか教えない(+と言った)のか?(+という疑問である)。

これは、非常に重要な中道正見である。

一つの事柄ーー二つの相。

この二者は、同じ一つの現象の二つの相を表している。

出世間の正見は、同時に二つの面を擁してる。

ちょうど、貨幣には二つの面があるように。

では、どのような二面か?

それは、苦と苦の終息である:

苦を知り、苦を終わらせる;

または苦から離れて楽を得る。

故に、それが苦である、と知るより外に、我々は苦の滅の道ーー涅槃の体現・証悟こそが、最高の喜楽である事を、知る必要があるのである。

このことをよく理解して後初めて、我々の心において、我々は、愉快、喜悦、軽安と快楽(=楽しさ)を充満させて、修行することができるのである。(3-21につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

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<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>