昨日インターネット上のニュースで、埼玉の某寺院が檀家制度を廃止し、自由意思に基づく、自由参加型の「信者制度」を採用し、制度転換をした、という話を読みました(これは成功して、信者が増え、檀家時代よりも葬式も法事も忙しく、収入は 4 倍増だそうです)。
檀家制度というのは、日本独特のもので、江戸時代、どこの家庭も、(自分の信条とはおかまいなしに)どこかの寺院に強制的に属し、出生と死亡とお墓の管理は、一貫して、寺院がやっていたのですが(過去帳の管理)、これは、お寺が役所の代わりをしていた訳で、明治維新によって、西洋型行政手法が普及したため、都市化や核家族化と相まって、檀家制度に守られて、檀家からお布施を頂き、過去帳(戸籍)を管理していたお寺が衰退するのは、当たり前のように思います。
私が出家した、緬甸(ミャンマー)や、またタイ・スリランカの南伝仏教では、檀家制度というものはありません。
ただ、自分が尊敬できる、または好ましいと思える僧侶を、自力で見つけてきて(知人、友人からの紹介もあるかもしれませんが)、その僧侶の法話を聞き、自分に見合った修行方法を授けてもらう・・・僧侶の嫌な面を見て、嫌いになったら別の僧侶を探す・・・、そういう関係です。
ですから、たとえばタイなら、尊敬できる、好きな僧侶に会うためには、休暇をもらい、飛行機に乗って、そのお寺のある地方に出かけたりもします。
上記の寺院が、思い切って檀家制度を廃止したのは好ましいことだと思いますが、しかし、戒名に関する改革については、「今後は、金額が曖昧なお布施形式ではなく、明瞭会計とし、戒名をつけた場合、お一人〇〇万円頂戴します」との事。
しかし、そもそも、戒名は、死者につけるものではなく、戒を守ると誓って出家した比丘、比丘尼に、戒師(出家の儀式を取り仕切った和尚)がつけるものです。
戒名とは、インドには2500年の昔から、四姓差別があるため、出家者同士、世俗で使っていた名前から身分の高低を忖度して、相互に差別しないように、出家した時につけて頂く、サンガ内で使う<あだ名>です。
南伝では、戒師は出家者に戒名をつけても、お布施など要求しません。戒名は、決して売買の対象にはなりえないのです(死者に戒名をつける不合理性を止めない限り、日本の仏教は葬式仏教と揶揄され続けるでしょう)。
また上記の寺院は、「これからのお寺は、経営上手でなければならない」と言っていますが、本来サンガ・寺院は、出家者の出離の受け皿、また出家と在家が共に修行する切磋琢磨の場であり、<運営>はしても、<経営>するものではありません。
現在、日本の仏教界は、諸々の複合的理由から、衰退の一途をたどっていて、それぞれの寺院が、起死回生の道を探っているのでしょうが、仏陀の教えた<仏法>は、<経営>とは水と油、全くなじまない事に気が付いてほしいと思います。