世の中には、ひとたび原始仏教(南伝仏教・テラワーダ)に触れると、それはすべて仏陀の金口で、すべて正しいと思い、返す刀で、北伝の大乗仏教はすべて間違っている、と主張する人が、ままいるように見受けます。
私も若い頃、原始仏教に出会った時は、
「これだ!これこそ私が探していたものだ!」
と思い、大乗には大いに批判的になりました。
しかし、我々、テラワーダ好きの人間が、
の対立軸を作りだしたとしても、日本の仏教界の問題が
解決するとは思えないのです。
まず、(日本では見えにくくなっている)北伝大乗仏教(北伝菩薩道)とは何か?
を明らかにしなければなりません。
テラワーダの主張する 阿羅漢道 and 南伝菩薩道。
北伝大乗仏教の主張する 北伝菩薩道。
この三者の共通点と相違点、己の贔屓する宗門・宗派の立場を離れて、冷静に、現況・事実に基づいて、議論されなければなりません。
たとえば、台湾の仏教界・・・北伝仏教(大乗菩薩道)は、それなりに上手く行っています(日本ほど堕落していません~注1。)
しかし、その中で、<南無阿弥陀仏>を称える<浄土系思想(注2)>については、台湾のテラワーダの方々から、
「それは迷信ではないのか?」
という疑問が提起されいています
(「一概には迷信とは言えない」というのが答えですが・・・話を続けます)。
では、彼ら、大乗仏教、すなわち、北伝菩薩道を歩む大乗の僧侶、居士たちが<南無阿弥陀仏>と唱えるのは、何の為か?
それは念仏によって、常に沸き立つ<妄想>を止める事、妄想を止める事によって、心を清め、死ぬ時、来世は浄土へ往生(再生)したいと願う事、につきるでしょう。
日本には、浄土信仰は迷信だ、と主張するテラワーダの方々がいます。
が、台湾のテラワーダの方からは、以下のような意見を聞く事ができました。すなわち:
「浄土とは、仏陀の述べた<天界>の内の一つの事(時代と地域性による変形)だと理解し、その上で、念仏する人々は、天界に行く為に仏随念を修習しているのだと理解すると、我々テラワーダの主張と余り変わる事がない」と。
プンニャ・ナンダ尊者(緬甸パオ系僧侶)のお話では:
「南無阿弥陀仏の念仏修習が、仏随念に相当するなら問題がなく、単なる呪文ならば、よくない」
との事でした。
禅宗に関しては、タイのブッダダーサ長老(遷化)は、中国の六祖慧能が大好きで、「六祖壇経」をタイ語に訳されているくらいです。
禅宗の座禅・瞑想修行とテラワーダの瞑想と、まったく同じではなくても、親和性はあるようです。
私自身は、仏教好きの人々が、テラワーダと大乗仏教、日本的仏教、この三者の相違点を明らかにする事はよい事であり、また、必要であると考えますが、それは慈心でもって行うべきであって、覇を唱えたり、争ったりする必要はない、と考えます・・・<宗論はどちらが勝っても釈迦の恥>なのですから。
日本の仏教界の問題は、出家希望者が、受戒の後に捨戒(比丘戒と大乗戒ともに捨棄と聞いている)をしていながら、「己は僧侶である」として、実質在家であるのに法衣を着て説法し(在家なら、平服で説法すべし)、お墓の管理(売買)をし、死者に戒名をつけ(死者に戒名は無用)、それによって布施という名の金品を得る行為、戒律を守らず、梵行もなく、僧侶の姿が、本来あるべき僧侶(個人)と僧(=サンガ組織)の姿と程遠いことが、一番の問題だと思います。
私は安易な一乗説は取りませんが(注3)、日本の仏教徒は、テラワーダ(阿羅漢道と南伝菩薩道)と大乗仏教(北伝菩薩道)の共通点と相違点を、冷静に話し合って、良きを取り、邪を捨てて、仏教界を立て直す必要があると思います。
(注1)
大乗仏教は方便を重視する為に、民衆に迎合しやすい面がみられ、修行方法も、仏陀の教えと違ってしまっている部分があります。
たとえば、経行なども、テラワーダでは、業処の修行の為に行う<歩く瞑想>という位置づけであるのに対し、中国・台湾では「仏塔の周りを回る事」と理解されています。これは応用が過ぎて、元がなんであったか、分からなくなっている例だと思います。
(注2)
中国、台湾の浄土宗は、独立した一宗派としてあるのではなくて、禅宗に含まれます。禅僧は、朝と夕に座禅し、昼間は数珠をくって、念仏するのです。
(注3)
密教、チベット密教に、後世、バラモン教、ヒンズー教の影響を濃く受けたものがあります。