Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

(新)般若の独り言~テラワーダと大乗仏教

私は子供の頃から仏教が好きで、大乗経典を手当り次第乱読していたのですが、大乗経典は何を言いたいのか、読んでも読んでもよく分からず、独学の為、教えてくれる師もいませんでしたから、大変に困りました(注1)

仏教に人を救う力があるのかどうか、困惑し、行き詰っていた頃、25歳の時ですが、江戸時代の学者・論客、富永仲基の『出定後語』(大乗加上説/大乗非仏説)を読んで、目から鱗

それ以降は、原始仏教を探し求め、やがて、タイの森林寺院でテラワーダを学ぶようになり、どちらかと言うと、大乗否定派になりました(注2)

しかし、その後に、台湾に勉強に行くようになり、また最近「南伝菩薩道(大仏史)」(中国語版)一書を手に入れて、ちょっと考えが変わりました(深まりました)。

仏陀ご在世の時代、仏陀は主に「阿羅漢になって涅槃する方法」を教えたようですが、ご自身は、己の心身を擲つ利他行を完成されて仏陀になられたのですから、訊ねる人がいれば「仏陀になる方法」も教えられたのだと思います(それが「南伝菩薩道」です)。

台湾では大乗が盛んですが、彼らの合言葉は「大乗こそが仏陀の本懐」です。それは、彼らの心の中にある<仏陀になる為の菩薩道を歩む決意>の、表出でもあります。

「阿羅漢になる為の阿羅漢道」も、「仏陀になる為の菩薩道」も、共に仏陀の教えであるならば、そのどちらも否定する必要はないのでは、ないでしょうか?(大乗、特に密教は、仏陀の説かなかった、または禁止した修行方法を取り入れたりしている為、そのあたりの批判と整理は必要かと思いますが、大乗側も、テラワーダも、批判の為の批判は、そろそろやめた方が賢明でしょう。)

翻って、日本の仏教が、なぜこの様に衰退してしまったのかを考えますと、それは、日本の仏教導入の歴史と関係があるように思います。

日本が仏教を導入したのは、当時の支配階級に奉仕する為であり(貴族の健康と政治・権力の安泰を祈って祈祷する等)、仏教の本質である「個の解放」は無視されました。

それゆえ、現代においても、日本にはサンガがなく、個々の僧侶は、戒も守らず、それぞれが結婚して家庭を営むために、寺院が寺院の機能を果たしておらず、仏陀の教えた阿羅漢道も、菩薩道も見えてきません。

仏陀の教えた法・ダンマとは、死者の為でも権力者の為でもなく、<個人の心の解放の為の、必要不可欠なるエッセンス>の凝縮したもの(注3)という共通認識に立って、日本の仏教界は、まずサンガを形成し(梵行の場の確保)、三法印の旗印の下、阿羅漢道を歩むのか、菩薩道を歩むのか、その方向性を、明確にする必要があるのではないでしょうか(阿羅漢道も菩薩道も、という<二足のわらじ>もアリ、かも知れません。菩薩になる為には、行捨智が必要ですが、これは阿羅漢への道程でもあるからです)。

台湾の仏教界は現況、基本的には大乗菩薩道志向で、若干の者がテラワーダの阿羅漢道を歩んでいる状況ですが、お互いに尊重し合い、トラブルは起きていません。

菩薩道を歩むのがよいか、阿羅漢道を歩むのがよいか。

その選択は、個人の自由だと思います。

考証学的にも、経典判釈的にも、大乗非仏説が確定した今、大乗経典の中に、仏陀の説かなかった観音菩薩阿弥陀如来が出て来るのを、日本の大乗の論師が、どういう方向で整理し、整合性のある説明をするのか、日本の仏教界をどのように再建するのか、一乗説の可否を含め、今後の議論の深まりを、期待しています。

注1:後になって分かりましたが、私自身は、子供心に<無常・苦・無我>三法印の説明を探し求めていたのですが、大乗経典では、三法印の説明は少な目で、また、無我より<空>が強調されて、無我の説明が、より抽象的、哲学的になっている為、子供には歯が立たない。

注2:日本の僧侶は、妻帯し有髪、戒律を守っている様子がなく、故に実質は在家でありながら、法衣を着て<出家僧侶>を名乗る事・・・これは大きな組織的矛盾、存在矛盾であって、この事も大いに、私の大乗不信を募らせました。日本では今<お坊さん便>が話題になっていますが、実質在家なのに「出家の僧侶である」とする僭称行為、絶対的自己矛盾を解決しない限り、民衆の、僧侶への信頼は取り戻せないと思います(他の仏教国では、日本の僧侶は、僧侶として認めていない。仏教国際会議の質問で一番多いのは「なぜ日本の僧侶は結婚しているのか?」です)。

注3:民衆に迎合する為の、占いや予言行為を、ゴータマ仏陀は禁止している事を鑑みると、仏法とは三法印、四聖諦、八聖道、37菩提分、自利利他の精神、覚者としての智慧(縁生・縁滅の自覚)、に尽きると思います。

   <緬甸パオ森林寺院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay 般若精舎>