私をテーラワーダ仏教に向けて、開眼させてくれた本は、以下の通り。
1)富永仲基の『出定後語』
「大乗経典は後世の人々の加筆である」という江戸時代の論(=大乗非仏説)で、これを読んだ時、私は「ああ、もうこれで大乗の仏教書とはお別れだ」と思えて、また実際に、これより以降は、大乗経典類を読まなくなりました。
ただし、最近は大乗に対して、大きな反感はありません。
たとえば、日本の念仏行は、テーラワーダで言う所の、仏随念の変形であると思われます。台湾の大乗で実践される念仏行は、サマーディに入った後「念仏するのは誰か?」と問う修行で、これはテーラワーダで言う所の<縁起の悟り>への誘いかと思われます。
そうであるならば、原始仏教と大乗仏教は、結局は、根の部分では繋がっている様に思え、相手への理解を欠いたまま、必要以上に批判し、反目し合うのは、心を汚す煩悩になると思います。
ただし、日本の仏教界は、今すぐ、襟を正さなければ、衰退の一途を辿ると思います。
『法句経』『仏陀最後の旅』などなど、パーリ仏教を世に知らしめた各種の著書、翻訳書。
彼の講演会に行って、戒律について質問した体験あります。回りの人たちが「えっ、東大の名誉博士に、そんなこと聞く?」と異常に反応し、それを見て、私も非常に緊張しました(苦笑)。
3)河合隼雄
『宗教と科学の対話』『明恵夢を生きる』など
日本では《宗教に走る》と言って、宗教に興味を持ち、宗教団体に入って活動したりすると、この様に揶揄される事がありますが、河合隼雄さんは、文化、哲学、精神、科学と宗教は、人の心の内に通底するものであって、成熟した大人にとっては、心内において、これらは皆、統合されるべきものであることを、解明してくれました。
4)『アビダンマッタサンガハ』
パオ Sayadawの『智慧之光』に感動して以降、テーラワーダ・アビダンマ系の仏教書(中国語版)を手当たり次第に読んでいますが、原点は『アビダンマッタサンガハ』が一押し。
迷ったらこれに戻る。
基本は全部、ここから。
追記:ゴータマ仏陀が般涅槃する時、「私のサンガに後継者はいらない」と述べました。
日本の仏教界、寺院の継承者が長男(または婿取りした長女)である異常性、五戒さえも守らない僧侶、死者に(有料でも、無料でも)戒名を付ける愚行・・・中村博士御存命の頃、戒律に関する質問をした時、周囲から「それは日本ではタブーなんだよ」「そんなこと聞くな、馬鹿」という声が聞こえてきた様に思います。
ゴータマ仏陀の一切知智は、最初からそこにある。
我々自身が原点に帰ることができれば、万事、事も無い。