是誰庵のひとやすみ~56>無念無想
知人(浄土宗信者)「あなた、どんな修行しているの?」
私「主に瞑想・座禅です」
知人「あら~~、坐禅って、無念無想を目指している?」
「そんなの無理無理」
私「・・・」
いや、坐禅っていわゆる、<枯れ木のような無念無想>を目指
している訳ではない、と自分では分かっているけど、坐禅の
経験のない人にどう説明していいやら。
と、先日読んだ仏教書に、こうありました。
<人間、生きている限り、無念無想にはなれない。禅宗で無念
無想といっているのは、心が清らかになった状態を言う>。
まぁ、24時間、一日中心清らか(無念無想)、というのは
ちょっと難しいけれど(夢の中で、人を殴ったりしますから)、
坐禅している時、自分の心の中のザワザワは横に置いて、
フッと<澄み渡った感じ>になる事はありますね。
それが日常生活にもフィードバックされて、普段の生活にも
落ち着きが出てくればシメたもんで・・・。
浄土系の人の言う<修行無用論>もちょっと違うような気が。
だって浄土宗お勧めの<お念仏>自体が修行だし、浄土宗には、
昔<身調べ>という、修行方法もあったそうですし。
上述の知人は歎異抄好きで、「あれこれ修行しても、どうせ
救われないから、何もしない(それほど人間というのは
イタダケナイ生き物ダ)」といい、その謙虚な所は見習い
たいものだとは、思っていますが。
いたそうで、日蓮宗と浄土宗は分裂していなかったん
ですよね。
浄土宗が含まれていて、出家者は朝夕座禅、昼間は口称念仏
で、在家は朝夕の座禅に時間を取れない人が多く、結果的に
口称念仏だけ、という人が多いですが、あくまで禅宗の枠内。
しまったのかしらん。話が飛びました。閑話休題。
追補:口称念仏、その原型は、テラワーダ(南伝仏教)にも
あります。初心者で、座禅すると妄想してしまったり、
称えなさい」と教えます。時間的、地理的に、ゴータマ仏陀
の偉大さへの実感がうすれた国・地域では、南無阿弥陀仏
(アミターバブッダ=宇宙の本源たる光)と称えるように
なっただけで、目的と効果はほぼ同じ、と言えるのではな
いか、仏教学者でない私の、勝手な推論です。
最近、「宇宙は光で出来ている」と物理学者が言っている
のを聞いて、南無阿弥陀仏もあながち迷信でもないかも、
と思うようになりました。(終)。。