Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

般若の独り言~無学

若い頃、大乗の仏教書を読んでいて、「無学」という言葉に出会いました。

当時の私は、

「仏教とは何だろうか?」

「仏教を知るために、これから先、どれほど勉強しなければならないか?」

という疑問で胸が一杯でしたから、仏教書に

仏教徒は無学たれ」

という言葉があるのを知って、

「???」でした。

そのうち、仏教書を乱読しつづけて、仏教でいう「無学」とは、(修行して、結果)阿羅漢になる事、という意味内容を把握することができました。

仏陀は阿羅漢でもありますが、阿羅漢は仏陀であるとは限りません。

しかし、阿羅漢もまた仏陀と同じく、これ以上学ぶことのない、<無学>の<聖者>であります。

阿羅漢は、サマタ・vipassanā の修行が成功して、己自身の身・心と外部世界の、その実相に関して、相当高度なレベル(素粒子レベル)で納得を得ている人、存在に関する因と縁、無常・苦・無我を知り、結果、喜怒哀楽が淡泊になって、己自身と外部世界の出来事に一々振り回されない人、涅槃(無為法)を体験しているので、心に深い喜びのある人、という風に私は理解しています。

そんな私の前に、世俗の知識収集に余念のない御仁が現れまして、私「なんだかなぁ」という心境。

この御仁、花の名前、石碑のあり場所(九州限定)、観光地の名称等々、ありとあらゆる事柄事物、なんでも「知っている」アピールしなければ体調が悪くなるらしく、先日は

「○○という、日本の田んぼのあぜ道に生えている雑草、これは、チューリップの原種だ」

と言いだして・・・。

チューリップって、ヨーロッパ原産で、オランダで改良されて、世界に広まったのではなかったっけ?

私は「無学」たらんと、安般念に励み、言語を離れ、<言語道断の境地>において、己自身の身・心、外部世界の無常・苦・無我を体験する事をめざし、毎日精進を欠かさないのに、携帯を検索すれば即刻わかる様な知識、世俗の表層に漂う知識をかき集め、披露しつづける人の饒舌を聞いていると、頭が痛い(こういうタイプの人は、<果てしない承認欲求>という心の病を抱えているのでしょう。仏教で言う所の、己自身を知る、自律・自立が出来ていないのだ、と思います)。

ゴータマ仏陀が「修行する人は、アーランニャ・・・森に、空き地に、静かな場所に行って座禅・瞑想せよ」

と言ったのは、2500年前から、無駄に知識をかき集める事が好きな人々、無学とは正反対の人々がいたからかな、と思いを巡らす今日この頃。

他人の言動に巻き込まれない修行、心にアーランニャを、と願う日々であります。

(私も昔はおしゃべりでしたから、自戒をこめて)

<緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/

Paññādhika Sayalay 般若精舎>