ゴータマ仏陀の教えの真髄は、
無常(アニッチャ)・苦(ドゥッカ)・無我(anatta) または四聖諦
または 心、心所、色法、涅槃 である、
と言えます。
涅槃の説明も難しいですが、無我という概念を理解するのも、大変に難しいです。
無我は、私はいない、と訳せますが、では、
「あなたはいない」と言われて、
「はい、はい。ごもっともです。
私はいないのですから、何も欲しがりません」
「今日、殺されても、笑って死ねます」
と言える人は、悟りを開いた阿羅漢くらいで、凡夫では無理でしょう。
故中村元博士は、生前、anattaは、無我と訳さず、非我と訳すべきだ、と主張しました。
これには、日本の仏教界は、賛否両論でした。
中国語の仏教書を読んでいますと、無我と非我は、同じ事柄を意味しています。
無我は、常に、無我所有、または非我所有として、並列表記されるからです。
無我所有、非我所有の、その意味は、
己の身体、または、己の外部にあるすべての物質は、素粒子で出来ており(注1)、そのミクロ的存在は、<私の><コントロールの外>にあり、故に、無我所有であり、非我所有となります。
心もまた、認識機能を持つ素粒子と定義されうるならば、心も身体と同様、無我所有であり、非我所有となります。
中国語で説明される場合の、<無我>という概念に、無我・非我論争は、存在しません。
今日、この事を強調したかったのは、日本の、無我・非我論争に終止符を打ちたい、という(そんな大それた)ことではなく、
我々は、己自身に所有されるものは、何もない、
身体も己自身のものではないし、
心もまた己自身のものではない、
という事を、改めて確認したいから。
そして、我々の存在が、無我所有であり、非我所有であるとしたら、隣国の国土を軍靴で蹂躙し、侵略して、己自身のものにする行為の愚かさに、おのずと、目が覚めるのではないでしょうか?
真の仏教徒は、少欲知足をいい、愚直にそれを守る・・・テーラワーダ(南伝仏教・原始仏教)の出家者は、財産を持たず、托鉢や布施だけを頼りに生きる為、
【あまりに禁欲が過ぎる】
と、世の人々に嘲笑されることがありますが、
己のものではない身体、
己のものでない心に、
執着しない事をモットーに生きる仏教徒は、隣国の国土に食指を動かすことがない。
起きて半畳、寝て一畳、天下取っても・・・
非暴力、不与取(不偸盗)、少欲知足でありたいと思います。
(注1)正確には、身体、物質は、素粒子=色聚ではなく、色法で出来ています。
色聚=素粒子。
色法=クオーク類。
心聚は、いまだ、<心の塊>であって、心と心所と、バラバラに分解された時に、心法、という。
存在の究極法は、色法と、心法である。
ロシア軍が、ウクライナ・ブチャにて蛮行虐殺を行ったとの、報道のあった日に。
<緬甸パオ森林寺院/ヤンゴン分院所属/
Paññādhika Sayalay般若精舎>