四、五年前の事ですが、浄土真宗を信仰されている方と出会いました。
彼女は、二言目には
「サヤレー、修行なんぞ、してはいけません」
「何事も、他力本願でよいのです」
また最近、同じく、浄土真宗を信仰されている方と出会いました。
彼女曰く:
「南無阿弥陀仏、お念仏が大事」
でも、このお二方、私が
「無我とは何ですか?」
と尋ねても、首をかしげて、
「我々凡夫に分かるはずがない」
とおっしゃいます。
いえいえ、<無我>というのは、あまり難しく考えずに、2、3日、呼吸を見る瞑想、アーナーパーナサティ(安般念)を実践すれば、
「はは~~、もしかしてこれの事?」
とわかってきます。(勿論、これは、凡夫の初心者レベルであって、真のゴールまでは、まだまだ、道は遠いですが)
2、3日、理想的には一週間~10日間、雪隠詰め、お寺で軟禁状態で修行するのがベターです(自宅では、電話が鳴ったり、来客があったり、集中できませんので)。
私たちは、音を聞いたり、物を見たりした時、瞬時に
「私は何々を聞いた」
「私は何々を見た」と、
まとまった自己が、ある種の、まとまった行為を、遂行している様に感じてしまいますが、心の起心動念の初端を(智慧の眼で)見る事が出来たならば、あるのは心の癖(業)に伴う心の連鎖的反応・展開だけであって、【私という塊】は存在しない、という事が分かります。
浄土真宗の方々が、修行を忌み嫌う理由がよく分かりませんが、2600年前、ゴータマ仏陀の教えた所の、40 種類の業処から、何か(一つ)を選んで修行する事は、非常に有益であって、それを忌避するのは、非常にもったいない事だ、と私は思います。
基本、40 の業処から、何か一つを選んで、自力で修行して(有資格、良質の師について下さい)、(悪業によって)修行が壁にぶつかった時は、心穏やかに、日々、他力(アビダンマを復習したり、ボランティアをしたり)に委ねて過ごし、修行の気運が戻って来るのを待ちます。
自力と他力の関係を、私はこの様に理解しています。
追加:日本の浄土真宗で勧める<お念仏>は、原始仏教の仏随念と同質であるならば、浄土真宗の方も、業処の修行をしている事になります。
中国、台湾では、禅宗の中に、念仏修行が組み込まれています。夜は坐禅して、昼間、何かとせわしない時間帯は、念仏してやり過ごす、という塩梅です。
<緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/
Paññādhika Sayalay 般若精舎>