しかし、我々は、これらすべてを「我(私)」と見做してしまう。
その原因は、我々が、究極法を如実に知見する事ができないが故、である。
心の生・滅の過程が、迅速に過ぎるが故に、我々は、聞こえた、視えた、食べた、足を揺らした、それらすべてを、一個の「我(私)」と見做し、これらを帰納して、
「私が」実践、体験しているのだと、思ってしまう。
(3-10につづく)
★句読点は中国語原文を優先尊重。
<願以此功徳、早日証得涅槃楽>
<緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/
Paññādhika Sayalay 般若精舎>