ブッダダーサ著「生活の中の縁起」(翻訳文)ー20
6)業(kamma)の角度からみると、縁起が顕現させるのは、
非黒非白業及び黒業、白業の滅尽で、かつ、福業、非福業と
不動業のすべてを「苦」と見做す。
この三種類の業を超越して初めて、徹底的に苦を滅する事が
出来る。このようにして初めて、業が、自我の執着をもたら
することなく、また、すべての常見の存在を許す事がなくなる。
7)「現見(今すぐ見る)」(sandiṭṭhika)に合致する事。
縁起の一回の流転・捻転を、三世を含む輪廻として説明する
なら、「現見」の原則から外れる。縁起の11種類の状態は
「現見」から離れてはならず、離れていないことが、仏陀の
縁起である。(つづく)。。
(台湾香光尼僧集団翻訳グループ~タイ語→中国語
原題「生活中的縁起」中国語→日本語 Pañña-adhika sayalay)
訳者コメント:日本では、ブッダダーサを「正しい」という人も
いれば、「間違っている」という人もいます(タイでは、寡聞に
して、批判めいた話は聞いたことがありませんが)。
ブッダダーサは仏陀の説いた縁起を、<いま・ここ>で活用できる
ものとして説明しています。ブッダダーサは、三世輪廻の存在は
否定していないのですが、縁起の教えを三世輪廻に当てはめるのを、
批判しています。
思うに、三世輪廻は、かるがると、バラモン教(現在のヒンズー教)
と同調してしまう。そうすると、仏教の四姓平等説も、崩れてしま
う危険性をはらんでいる訳です。
そうなんですね「あなたが今世でシュードラ、奴隷なのは、前世で
あなたが悪い事をしたから」「だからあなたの今世の人生が悲惨
なのは、仕方がない」という差別者、体制側のレトリックに
からめ捕られてしまう訳です。
という立場。これも、ヒンズーの差別構造にからめ捕られない
ように考えた、一種の方便ではないかと、私は思っています
(圧倒的強者と同じ土俵には立たない、という知恵)。
仏教は、どこか真空地帯で説かれた教えではなく、2500年前の
インドで、三世輪廻説に惑って差別を受ける人々を(政治的にでは
なく実存的に)解放するために説かれた、という歴史背景を忘れる
事はできません。
どこか清らかな真空地帯に、無垢で正しい仏教があるはずだ、
というのは幻想でしょう。(終)