南伝仏教のDhamma book

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苦へのまなざし>還暦おばんの仏教談義―168

(旧ブログ<犀の角のように>の中に書いた「苦へのまなざし」一文は、是誰庵日記を見に来てくれる友人の為に、こちらに移動しました。<犀の角・・・>と重複していますが、よろしくお願いいたします)。

 

<苦へのまなざし>

仏教の最も大切な思想は<無常・苦・無我>で、三法印と呼ばれています。これに<涅槃>を加えて四法印という事もあります。今日は、その中の<苦>について私見を述べてみます。

この<苦>を「仏陀は『人生は苦しみだ』と言ったのだ」ととらえて、人にそのように言うと、大概の人は「そんな事はない。人生は苦しい事もあるけれども、楽しい事もたくさんあるよ」「仏教って悲観主義なのね」等と言います。

私は最初「この人たちは楽観的で、人生が苦である事を知らないのだ」と思いましたが、当方の言説を相手が納得しないのは、こちらの理論に何か足りないものがあるのではないか、と思い、思索を重ねてきました。

私が「智慧の光」(パオ森林寺院で教えているヴィパサナの方法論を書いた著書)を翻訳し、また多少の修行をして気がついた事を基に考えたは、人生が苦しいか苦しくないかというのは、立場によって、またその時の気分によって、どのようにも恣意的に解釈・主張できるから、そこに立って議論すると、水掛け論になってしまうのではないか、という事です。

仏陀は水掛け論の不毛をよく承知していて、とても嫌いました。

では、<苦とは何か?>を水掛け論を避けて理解しようとすれば、私「それはエントロピーの法則の事を言っているのだ」と思うようになりまた。

パオ森林寺院では、心と体の構成要素であるルーパ・カラーパ(素粒子よりは若干大き目の微粒子の事)を、初禅から四禅に入って観察する(これをヴィパサナと言います)訳ですが、その時に、微粒子の無常、即ち、微粒子の離散集合(=微粒子の刹那生滅)を観なさいと教えられます。

次に、パオセヤドーは「無常故に苦、ではないので、無常と苦をいっしょくたに結び付けない事」と注意されます。

私は以前、無常→すべてはいずれは消滅してしまうもの→消滅する事を認めないで、いつまでもあって欲しいとばかりに執着する心が苦を生むのだと理解していたのですが、そうするとパオセヤドーの「無常と苦は別々のもので、無常故に苦であると言ってはいけない」という教えと合致しなくなります。

元々、ドッカというパーリ語を、当時(古代)の中国人が<苦>と訳した時、それは<苦しい>という意味ではなくて、滅びるものは(人間にとって)満足できる要素を持たない、という意味らしいです(古語と言うのは難しいものですね。老子は宇宙エネルギーの事を<徳>と言ったそうですし・・・)。

論点を整理しますと、無常とは、微粒子の離散集合、刹那生滅の事。

苦とは、微粒子のエントロピーの事(どんな高度なエネルギーであっても、一旦四次元世界に生まれた以上、離散集合を繰り返しながら、後は消滅するばかりで、ただただ、0ポイントへ向かうしかない。四次元世界のエネルギーは不満足な要素で満ちており、頼むに足りぬ、という事)。

無我とは、微粒子の離散集合(=刹那生滅)とエントロピーという現象は、自動的自然(じねん)的にお互いの相互依存の元、縁によって生起と消滅を繰り返しているものであって、どこかに偉い神様=主宰者がいて、それらを生起させたり、消滅させたりしているものではない事(インドの言語習慣で我とはアートマン、主宰者の意味)。

このように<苦>をエントロピーとして説明すると、恣意的な水掛け論に

もならないし、科学的で整合性もあります。また、私が長年不思議に思っていた、なぜ<無常・苦・無我>はこの順序で語りつがれてきたのか?という疑問にも終止符が打たれます。

無常・苦・無我の三相は「観察される対象」であって、「私がそれを苦しいと思うか思わないか」という、考察の対象ではない、という事です。

仏教が縁起説であって、かつ無神論であると言われるのは、名と身(ナーマとルーパ)の生起と消滅を管理しているのは、神ではなくて、自然(じねん)的な縁起による、その哲理の故です。

仏陀ご在世の時に、バラモン達が「人間は神の支配を受けているので、神を怒らせないようにお祈りせよ」と言ったのを、仏陀が縁起説を引っ提げて、真っ向からバラモンに反対した、という訳です。

なお、上記名(ナーマ)は心の事で、身(ルーパ)は身体の事です。