縁起を、三世を貫通するものとして説明するのは、完全に
間違っている。というのも、そのような説明は、現実の修行に
生かせないから、である。
修行に生かせない理由は、因が前世にあり、果が今世にあると
いう言い方・・・もし、因が前世、果が今世にあるならば、
人生に起こる問題を、解決する事は決して、できない!
もし、今世の因が、来世の果をもたらすならば、愚か者が
夢の中で素敵なものを手に入れたと喜ぶ以外、人々に
何の利益を、もたらす事ができるだろうか?
それに、三世の解釈は、「法」の基準とも合わない。
すなわち、「直接体験し、今すぐに成果を得ることができる。
皆、来たりて、みるがよい。内に向かって観照し、智者自ら、
体験し実証せよ」(と仏陀が述べた事と合わない)。
それは常見の霊魂または自我(の存在)を言うが、全く益の
ない事であり、修行に利用する事ができない。
故に、我々は、このような知見と概念を手放し、原始パーリ
経典に戻ろうではないか!
これらの原始のパーリの経文は、文字(文脈)の上からも、
意義の上からも、正しいのである。(つづく)
(台湾香光尼僧集団翻訳グループ~タイ語→中国語
原題「生活中的縁起」中国語→日本語 Pañña-adhika sayalay)