この点(No67)に関して、過去には、タイの僧王桑可拉
(サンカラorシャンカラ)が、このような誤った解説の仕方は、
1000年以上も前から継続している、と確信していた。
しかし、彼は、正しい解釈の仕方までは知らず、縁起という
のは、一世で完結するべきではないか、と憶測していた。
私は頑固な子供のようで、私は断固として、パーリ経典の解釈
ーー縁起とは、一回性の心理活動の流転・捻転であり、
それは稲妻のようなものであるーーという事を、断固として
支持する。
それ(縁起)とは、無明の力(エネルギー)によって、
造作が引き起こされる時、一個の流転または一個の捻転と
呼ばれ、ゆえに、一日の間、縁起とは、何度も何度も、
生起するものなのである。
縁起を、三世を貫通するものとして、解釈するのは
間違っている。それはパーリ経典に合致しない。
というのも、そうなると、自我、梵我という間違った概念
が出てくるが、これは常見であるから。
この観点は、非常に大きな障害をもたらすーー誰にも、
何らの利益も、活用方法も、もたらさないが故に。
(つづく)
(台湾香光尼僧集団翻訳グループ~タイ語→中国語
原題「生活中的縁起」中国語→日本語 Pañña-adhika sayalay)