「行世間」(saṅkhāra)を解説するに、覚音は、仏陀が
知っているのは、名色、三受、四食、五取蘊、六入、七識住、
八世間法、十処、12処、18界だと言い、四聖諦ーー世間に
関する円満なる解釈ーーには触れていない。
以上の事から、私は、覚音の仏陀に対する「世間解」の解釈の
大部分は、バラモン教に依っており、仏教に関する解説部分は
非常にバラバラで、仏陀が何度も宣揚した世間に関する四つの
意義:「世間、世間の初因、世間の滅尽、および世間の滅尽に
到達するための修行の道は、すべて『心』『思い』とに結合した、
イキイキと生きている、この六尺の身体の中にある」という
教えから離れている、と考える。
「世間」(四聖諦)は、仏教の核心であるが、覚音は、
自分の(好む)方式で解説しており、私は、彼の解釈は仏教で
はない、と思っている。
実際、縁起とは、結局、世間、世間の初因、世間の滅尽、
および世間の滅尽に到達するための、修行の道を説明している
もので、それらは、イキイキと生きている、六尺の身体の中に
存在しているものである。
言い換えれば、縁起の流転または還滅には、絶対に「主体」
「人」「我(私)」「衆生」というものは、存在しないのである。
四遍浄戒~~
そのほかに、(彼によって)混乱が生じて、人々を困惑させている
事柄として、四遍浄戒について述べてみる。
覚音の《清浄音論》以外に、この種の、四つの戒は、どのような本
にも書かれていない。彼は「根律儀」を一種の戒とみなしたが、
これを戒とみなすならば、学生・修行者にとって、学び、実践する
ことが難しくなる。また彼は、「活命遍浄」も、一種の戒であると
みなしたが、これもまた、別の問題を引き起こした。
次に「資具依止」ーー衣服、食物、寝具・ベッド、医薬も、
一種の戒でるとしたため、これらの解釈は、かえって、
戒の意義を曖昧模糊とさせてしまい、学習者にとって、
戒を守る基準を理解するのが、難しくなってしまった。
パーリ経典の中には、これらの戒律を明確に定めた文言は見えず、
ただ覚音の《清浄道論》にのみ、出てくる。
二種類の涅槃~~
他には、例えば<二種類の涅槃>がある。彼は「無余依涅槃」を
阿羅漢の、已に生じている諸蘊の滅尽であると解釈し、いまだ
生命のある阿羅漢については、「有余依涅槃」とし、
《清浄道論》において、この事を非常に強調したが、しかし、
パーリ三蔵の経文、例えば、《小部》如是語などとは、一致しない。
覚音の各種の解釈の中で、私が同意できないものは、多い。
これらの事柄について、100パーセント同意しないものもあれば、
自分自身が未だ十分に理解しえていないので、彼の解釈を
受け入れられないでいる部分もある。私が覚音についてあれこれ
言うので、彼の事を、絶対に阿羅漢であると信じている人々に
叱られそうであるが、それでも、私たちは「この問題をじ
っくり考えようではないか!私の言う事を信じなくても
いいけれど」と友人に伝えたい。(つづく)
訳者コメント:四遍浄戒とは、別解脱律儀戒、根律儀戒、活命
遍浄戒、資具依止戒の事。<二種類の涅槃>に関するコメントは、
No74にて、解説します。
(台湾香光尼僧集団翻訳グループ~タイ語→中国語
原題「生活中的縁起」中国語→日本語 Pañña-adhika sayalay)