南伝仏教のDhamma book

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FDC資料「37道品ハンドブック」7-6 Ledī Sayādaw著(90/120)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

(以下の翻訳文は、福岡ダンマセンターの法話会に供する為の資料です)

上に述べた「七覚支」と関連する境地は、相互に協調・影響し合うもので、また、それぞれの機能・功能も、特別に明晰である。

普通のレベルの修行者であっても、「身念住」に安立する刹那から始まって、たとえば「正念」の「諸法」は、「覚支」であると見做されるのである。

仏陀は、「七覚支」を修習する必要がある旨、開示したが、この事は、「覚支」として認められるのである。

仏陀は、「七覚支」の修習が必要であると、開示した時、以下のように述べた:

「念等覚支を修習する時、遠離依止(=遠く離れて依止する)、遠離貪念依止(=貪念から遠く離れて依止する)、滅尽に依止(=滅尽に依止する)し、最後に般涅槃に入る・・・。

捨等覚支を修習する時、遠離依止、遠離貪念依止、滅尽に依止し、最後に般涅槃に入る。」(《論蔵》、《分別論》第10品分別覚支、参照の事)。

その意味は、一般的な方向性としては、「身念住」に安立する体験(たとえば、呼気・吸気)は、すなわち、「七覚支」の安立と、同等であるという事である。

「七覚支」の個別的な安立については、《分別論疏》参照の事。(Sammohavinodanī‐Aṭṭhakathā 《分別論註釈》第一品Suttanta‐bhājanīya‐vaṇṇanā)。

上に述べたパーリ語の意味は:

「修行者は『念等覚支』を修習しなければならない。彼は一切の活動、焦り、渇望、貪婪の止息に依りながら、または輪廻の苦の止息(+を目指し)、または四種類の依存の基礎(四種類とは、感官の快楽への執着、汚染された心による激情への執着、行為の功徳への執着、身体の五蘊への執着)を放棄する。」

である。

「遠離依止」(viveka nissita)、

「離貪依止」(virāga nissita)、

「滅尽依止」(nirodha nissita)はそれぞれ、

「『有の成就』と『財産の成就』に向かわない事であり、今生のうちに、潜在する『身見』の大部分の領域において、それを打ち壊し、輪廻から解脱する事である。」

「成就依止」(vivaṭṭa nissita)とは、間を置かずに念々として正念を保ち、感官の執着から解脱する事である。

また、「覚」、「覚支」と「菩提支」の意味は、皆同じである。

(8-1につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<「37道品ハンドブック」Ledī Sayādaw著 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>