<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
(以下の翻訳文は、福岡ダンマセンターの法話会に供する為の資料です)
故に、《法句経》では以下のように言う:
「比丘は、(+執着を)捨て去る事や、謙虚になる事を通して、彼の心は寂静になり、超人的な楽を得る。」
(《法句経》第373偈頌)
「もし、人が常に正念を保ち、諸々の蘊の生・滅において、喜と楽を獲得するならば、彼の不死を得る。」
(《法句経》第374偈頌)
もし、「直観楽」(vipassanā sukha)において得た所の、体験の楽しさと喜悦(この種の楽は、「七覚支」において完成する)を、256個の部分に分けたならば、その一つひとつの楽しさと喜悦はすべて、世間の国王、天人、梵天の楽しさと喜悦を、超えている。
ただ「正覚」における喜悦と楽しさだけが、かくの如く巨大なのである。
故に、仏陀は以下のように言う:
「諸々の味の内、法の味が一番勝る!」
(《法句経》第354偈頌)
多くの物語(《相応部》・覚支相応)が以下の様に言う:
ただ「七覚支」の偈頌を聞いただけで、大部分の疾病と慢性病を治すことができる。ただし、これら偈頌を聞いた者が、完全に「七覚支」の意義を知っておかねばならず、その上で、その人に、強大で、明晰な信心(=確信)が生まれるならば、これらの疾病と慢性病は、癒されるであろう。
バランスのとれた方式で「七覚支」を獲得するならば、このヨガ行者は、「身念住」において、決して欠陥・問題点は生じないし、また、彼の、「無常」、「無我」の覚知と察知、及び、心身のエネルギー(+の偏差)において、決して欠陥が出現することがない事が、保証される。
というのも、彼の心霊(=心)は、「三法印」の中で安立し、自在であり、彼は今こそ、涅槃の光明が齎す喜悦を覚知・察知する事を経験するからであるが、これらは、彼のこれまでの無尽の輪廻の中で、たとえ夢の中においてさえも、出現した事のないものである。
心霊(=心)の喜悦と、自在の故に、彼は「業処」の対象に対して、非常に落ち着いた態度で、安定して観照することができるが、この種の「落ち着き」の境地は、正念を通した努力によって、修行者が動揺から抜け出す、解脱した故であり、また、「無常」と「無我」を覚知・察知した為に(+心・身の)エネルギーが高揚する事によって、得る事ができたのである。
(7-6につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。ご協力、よろしくお願いいたします。
<「37道品ハンドブック」Ledī Sayādaw著 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>