ブッダダーサ尊者著「無我」(翻訳文)ー26
その他の宗教的学説における無我観
混乱を避けるために、我々は、外道の無我観
に注意を払う必要がある。
仏教の分類では、外道の観点は、二種類に
分けることができる。
一種類目は、世界を壊滅に向かわせる
間違った観点であり、二種類目は、
間違った観点ではないものの、仏教に属した
観点ではなく、また、仏陀の述べた教法と
相いれないものである。
間違った無我観~
仏教の言い方によると、以下の、三種類の
間違った無我観(または、「無我」の
観念を含む考え)がある、すなわち:
無作見(Akiriyadiṭṭhi 行為無効論)、
無因見(Ahetukadiṭṭhi)、
空無見(Natthikadiṭṭhi虚無主義論)である。
哲学的観念を持っていたのは六師外道(Aññatitthiyas)で、これらの宗教師は、
仏教とは異なる教義を打ち出した。
彼らの教義は、極端な無我観であったが、
その中にはいくつか、非常に精妙で
奥深い観点があったため、たとえば、
何人かの国王などの高級人士が、それらを
受け入れることもあった。
今日にいたるまで、これらの観点は、
いまなお、仏教と対抗することができる。
[富蘭那迦葉ーーいかなる人であっても、
善を行おうが、悪を行うおうが、
「自我」というものは、存在しない]
六師外道の富蘭那迦葉(Pūraṇakassapa)は、
以下のような考えを持っていた:
功徳というものはなく、罪業というものも
ない;善はなく、悪もない;
殺、盗もなく、邪淫もない;
これらの行為を行ったがゆえの罪業もない。
ある人が、すべての動物を殺し尽くし、
それらの死体を細かく切り刻んで、
それらの肉を閻浮大地(インド大陸)に
積み重ねてたとして、この種の行為は
あったと言えても、罪悪というのは、
完全に、ない;
たとえ祭祀を行う人がいても、またたとえ、
世界中のすべての苦行者と婆羅門に布施を
したとしても、ただこの動作があるだけで、
いかなる功徳もない;
人が、神聖なるガンジス河の左岸なり
右岸なりにおいて、この行為を行った
としても、一般の人々が信じているところの
功徳または罪業というものは、ない。
(+ )(= )訳者。(つづく)
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翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>