目標への専注、という作用を持つ ekaggatā は、通常、一境性または、定と訳される。
一たび「定」と聞くと、我々は、一境性は止禅の中にしかない、と思いがちである。
がしかし、事実はそうではない。
止禅の修習をする時、一境性が進歩を提供する(+という風に考える)のは正しいが、しかし、それは止禅に限った事ではない。
一境性は、一切の心に随伴している。
ただ、異なった心理に伴って、その性質が異なってしまうだけである。
不善心に伴う一境性は、邪定(micchā-samādhi)と言い、善心に伴う一境性は正定(sammā-samādhi)と言う。
定は、一境性心所の、もう一つ別の呼び名なのである。
邪定と正定は、共に一境性心所であるが、しかし、それらの性質は異なっている。
正定は、正確、または善なる方式で、目標に専注する事、である。
定には多くのレベルがある。たとえば、初禅定、第二禅定など等である。
《法聚論》(Dammasangaṇi)の注釈である《殊勝義註》は、正定に属する一境性を、以下のように説明している。
この定は、名を一境性と言う。
己自身が散乱しない、または相応する名法を散乱させないという特徴を擁する;
ちょうど、水が、洗濯石鹸を練り合わせて糊状のするように、具生の法を結合させる作用がある。
その現起(=現象)は、心または智の静寂である。
というのも、(経の中で言う):「(心の)定まった者は、真実なる法を如実知見する」からでる。
通常、それの近因は楽(sukha)である。
我々は、心の安定・静寂とは、無風の下での、灯火のように安定していることであることを、理解しなければならない。
正定は五禅支の一つである:
止禅において禅支を育成するのは、五蓋を鎮伏して、ジャーナを証得する為である。
ジャーナを証得しようとするならば、尋(vitakha)、伺(vicāra)、喜(pĪti)、楽(sukha)及び定(samādhi、すなわち、一境性)を、必ず、育成しなければならない。
すべての禅支は、業処(たとえば、安般念)を修習することによって、心が軽安を獲得するのを支援する。
観禅における正定もまた、存在する。
我々が知っている通り、《特殊義註》で言われる一境性心所または、定の二番目の現起(=現象)は、智でり、真実の法を如実に知見することであり、それはすなわち、智慧である。
智慧でもって、究極名法または究極色法を如実に知見する時、正定は、まさに己の任務を遂行しているのである。
例をあげれば、智慧でもって、究極名色法及びそれらの因の無常、因の苦または、因の無我の本質を如実知見する時、正定は、正確な方式でもって、同一の、一個の目標に専注する。
正定が、涅槃の出世間慧(正見)を伴う時、それは、涅槃に専注する。
その時、正定は、出世間八聖道分のその中の一道分になるのである。
(+ )(= )(下線)訳者。句読点等原文ママ。(5-39につづく)
Idaṃ me puññaṃ nibbānassa paccayo hotu。
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<パオ・セヤドー「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>