南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

パオ・セヤドー講述「顕正法眼」(翻訳文)~5-38

目標への専注、という作用を持つ ekaggatā は、通常、一境性または、定と訳される。

一たび「定」と聞くと、我々は、一境性は止禅の中にしかない、と思いがちである。

がしかし、事実はそうではない。

止禅の修習をする時、一境性が進歩を提供する(+という風に考える)のは正しいが、しかし、それは止禅に限った事ではない。

一境性は、一切の心に随伴している。

ただ、異なった心理に伴って、その性質が異なってしまうだけである。

不善心に伴う一境性は、邪定(micchā-samādhi)と言い、善心に伴う一境性は正定(sammā-samādhi)と言う。

定は、一境性心所の、もう一つ別の呼び名なのである。

邪定と正定は、共に一境性心所であるが、しかし、それらの性質は異なっている。

正定は、正確、または善なる方式で、目標に専注する事、である。

定には多くのレベルがある。たとえば、初禅定、第二禅定など等である。

《法聚論》(Dammasangaṇi)の注釈である《殊勝義註》は、正定に属する一境性を、以下のように説明している。

この定は、名を一境性と言う。

己自身が散乱しない、または相応する名法を散乱させないという特徴を擁する;

ちょうど、水が、洗濯石鹸を練り合わせて糊状のするように、具生の法を結合させる作用がある。

その現起(=現象)は、心または智の静寂である。

というのも、(経の中で言う):「(心の)定まった者は、真実なる法を如実知見する」からでる。

通常、それの近因は楽(sukha)である。

我々は、心の安定・静寂とは、無風の下での、灯火のように安定していることであることを、理解しなければならない。

正定は五禅支の一つである:

止禅において禅支を育成するのは、五蓋を鎮伏して、ジャーナを証得する為である。

ジャーナを証得しようとするならば、尋(vitakha)、伺(vicāra)、喜(pĪti)、楽(sukha)及び定(samādhi、すなわち、一境性)を、必ず、育成しなければならない。

すべての禅支は、業処(たとえば、安般念)を修習することによって、心が軽安を獲得するのを支援する。

観禅における正定もまた、存在する。

我々が知っている通り、《特殊義註》で言われる一境性心所または、定の二番目の現起(=現象)は、智でり、真実の法を如実に知見することであり、それはすなわち、智慧である。

智慧でもって、究極名法または究極色法を如実に知見する時、正定は、まさに己の任務を遂行しているのである。

例をあげれば、智慧でもって、究極名色法及びそれらの因の無常、因の苦または、因の無我の本質を如実知見する時、正定は、正確な方式でもって、同一の、一個の目標に専注する。

正定が、涅槃の出世間慧(正見)を伴う時、それは、涅槃に専注する。

その時、正定は、出世間八聖道分のその中の一道分になるのである。

(+ )(= )(下線)訳者。句読点等原文ママ。(5-39につづく)

Idaṃ me puññaṃ nibbānassa paccayo hotu。 

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<パオ・セヤドー「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>