たとえ話をしよう。
今、私の手元には、一杯の水がある。
相対的なレベルで言うと、私は「私の手元に一杯の水がある」と言える。
しかしながら、究極のレベルで言えば、このコップの中には、ただ純粋に、水だけがあるのではなくて、水の中には、多くのミネラルがあり、その意味においては、この水は純粋・清らかではない。
水の分子は水の分子、ミネラルの分子はミネラルの分子であって、相互に異なっている。
しかし、水の中にミネラルが存在しているからといって、それを「一杯の水」と言ってはいけないのかどうか?現実の生活をする上で、我々は、それをそのように呼んでもよいと思われる。
それは、仏陀が、大モッガラーナ尊者の第四禅を、そのように呼んだのと同じことである。
現実の生活の上では、あまりに正確に、厳しく用語を詮索するのは、実際的ではない。
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(1-44につづく)
Idaṃ me puññaṃ nibbānassa paccayo hotu。
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<パオ・セヤドー「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>