南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

★飛び入り翻訳~《基礎発趣論(業縁と果報縁)》3-12(60/100)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

臨終時の重要性

考えてみようではないか。

我々の、今ある命を、掌握するのが如何に重要であるか、臨終の時もまた、如何に重要であるか、という事を。

大部分の家庭では、経済、子供、親戚、友人などなどの問題から離れる事ができないが、我々は己自身に問うべきである:

安心して、往生する事が、出来るであろうか?と。

我々の知り合いの、ある一人の老居士が、お寺に来て、斎戒しようとした。これは非常に良い事である。

私は、彼女に、ここままお寺にいて家に帰らず、お寺で、午後食事しない戒律を守った方がよい、言った。

万一、家で亡くなった場合、私は、彼女が善趣へ往けるかどうか、保証する事ができなかったからである。

もし、お寺にいたならば、薫習されるのはみな、心識を静かに、安らかに整える仏法であるから、私は、彼女が善趣に往生するのを、保証することができた。

しかし、彼女は、私が家に帰らないように勧めたのが、気に入らなかったのか、彼女は、二度とお寺に来なくなり、暫くして、亡くなった。

私は、在家の人々の状況をよく理解しており、故に私は、彼女にお寺に住むように勧めたのだが、彼女の決定は彼女のものであって、私は、私自身の責務を、果たしたと思っている。

臨終の時、我々は、己の住居、周りの日用品、己の家、己の家人、親戚、友人などを見るが、彼、彼女たちが、哀悼の表情を表す時、これらは皆、死に往く者にとっては、困惑となる。

どれほど善良な人であっても、何事か、心に掛かるものがあれば、影響を受けるものである。

私も年をとったが故に、私は、特に、私と一期の生命を同じくする老人たちが、どのようにして、生きて来たのかを、観察する事が多い。

ある居士は、修行仲間と喧嘩をし、その後間もなく往生した。

二年後、彼の霊魂は、他人の身体に憑いたが、その性格は、彼の生前のものと同じで、己の所有物を探したりした。

家人は彼に問うた:

「あなたは、転生しない前は、何でしたか?あなたは、どこに住んでいますか?」

彼は答える:

「私は死んだ後、鬼道(=幽霊)の衆生になった。この町の、この通りに住んでいる」

問:「あなたは、人が怖くないのですか?」

答:「怖くなんかない!人々は人々の範囲内で生活しているし、我々鬼(=幽霊)は、鬼の領域で生活している。小さな子供は少し怖い。というのも、子供は悪戯をして、石や棒を投げるので、我々の身体に当たる事があるから」

「鬼の仲間たちも、群れを成して、この通りで遊ぶこともある。通りのお母さんたちは、斎飯を供養した後、回向するので、我々は善哉!と叫ぶ前に、飯、バナナの取り合いをして、食べる。物を食べると、みな大喜びだ」

彼らは餓鬼ではないので、飢餓と燃焼の状況にはない。故に、鬼(=幽霊)たちは楽しく遊ぶ。彼らは、自分がこの通りに住んでいると言い、私はそれがすぐ近くだという事を知っているが、通りの名前は、言えない。

実際、すべての村、町、市には、非常に多くの、鬼道の衆生が住んでいるものである。

(中略)

(3-13につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<《基礎発趣論(業縁と果報縁)》 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>