Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

翻訳(中→日)<実用アビダンマ>(55ー3)(私家版)(215/360)

2.臨終業                 もしも、重業がないのであれば、臨終業が熟する。所謂臨終業とは、臨終の時に思い出すか、または(その時に己が)なす所の、業の事である。。。。。。。                       《法句経》の中の Mattakundali (の物語)は非常に良い例である。Mattakundaliは、裕福な婆羅門に生まれた一人っ子であった。その後、重篤な肝炎を罹患した。しかし、彼の父親は非常に吝嗇で、彼をいしやに見せて病気を治そうとしない(これは父親の業であり、如何ともし難い)。最後、彼は病膏肓に入り、彼の父親は息子はもう治らないであろうことを察した。そして、父親は彼を門の外に捨てた。というのも、彼は知人ゆうしんが彼を訪ねて来た時に、彼の家にお金があるのを見られるのを恐れたのてある。仏陀は神通によってこの状況を知った。:「ああ、可哀想な人!私は行って彼を助けて上げよう。」そして、神通力を使って、Mattakundaliの前に現れた。Mattakundaliは、仏陀と面識はなかったが、しか仏陀の32の身体(部分)の様子は非常に荘厳で、誰が目にしても、非常に大きな歓喜の心が湧き上がる。彼はもうすぐ病で亡くなろうとしている、その悲惨な時、突然仏陀が目の前に現れたのを見て、その荘厳さに、心は非常な喜びに溢れた。この一刻に彼は逝去したが、これを「臨終業」と言い、臨終の前になした業の事である。Nattakundaliは、仏陀を見て生じた善心によって、天界に生まれた。彼は善行為を実践したことはなく、ただ臨終の一瞬前に善心を起こしただけであるが、それだけで天界に生まれる事ができた。故に、往生する時の、その瞬間の心が、善であるか、悪であるかによって、往生する場所が決定される。一生の内において、非常に多くの悪行をなした悪人であっても、臨終の時に突然善なる思いを生起したならば、やはり善道に往生することができる。