Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

☆「掌中の葉」(翻訳文)2-14

【定力を深める六つの素因】

あなたが、上述(No1-13)の、二つの原則を善用して、定の修習をする時、あなたの定力は、修行した時間に伴って、増強される。

この段階で、もし、あなたが良い師を見つけることができたならば、それはとても良い事である。というのも、多くの人々は、通常、ここの段階で壁にぶつかるからである。

勿論、彼らは、理解できた所の、基本的原則を運用して、定の修習を行ってはいるが、しかし、彼らは、己の修行における、長所と欠点を確実に知ることができない。

もし、良い師を見つけることができたならば、彼は、あなたの心境を点検し、あなたの修行における境界の、強みと弱点を指摘することができる。これは非常に良い事である。

彼は、あなたに欠けている素因(=心の性質)を指摘する。たとえば、心軽快性など;

または、あなたの心が、焦っていて、忍耐力に欠けている事などを、指摘するかも知れない。

定力を深めるために、修行者は以下の述べる、六つの素因(心所)を、重視しなければならない。

この六つの素因は、良き師が、学生を検査する時、または、修行者自身が、己の境界を点検する時の、根拠・基準とすることができる。

1、身軽安・心軽安

(kya-passaddhi、citta-passaddhi)

(この六つの素養の内「身」とは「心所」ーー心に随伴して生起し、心が目標を認知するのを助ける作用を持つ付属的な心理的要素、を指す。たとえば;感受、記憶、意志等である。)

身軽安:心所の静けさ

心軽安:心の静けさ

軽安の障礙:あせる事

障礙が生じる原因:あなたは、強すぎる目的に向かおうとする傾向がある(成功したいと言う意図が強すぎる。)

矯正の方法:手放す事。特に、よい境界を得たいと思う強烈な欲求を手放す事。あなたは、ただ、心に求めるものがない状態のまま、座禅・瞑想し、あなたの心を落ち着いて自若しているようにする。このようにすれば、身軽安と心軽安は生じることができる。

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(2-15につづく)

Idaṃ me puññaṃ nibbānassa paccayo hotu。 

★誤字脱字を発見された方は、<菩提樹文庫>まで。

ご協力、よろしくお願いいたします。

<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

是誰庵のひとやすみ~翻訳頻度落ちます

これより先、5月末まで、瞑想会参加等で、

何かと忙しく、翻訳頻度、落ちます。

家にいられる日は、できるだけ、一篇だけ

でも翻訳したいと思っていますが・・・

出たとこ勝負、という事で。

よろしくお願いいたします。

                  Pañña-adhika Sayalay

☆「掌中の葉」(翻訳文)2-13

心の中にどのような境地、境界・・・たとえば、光明、喜悦、または愉快な感覚等が生じようとも、心内では、ただ修行の目標に対する微細な覚受(=知覚と感受)を、自在に、保持するのが正しい。

光明、喜悦や愉快な感覚が、自然に発展するのを、そのままに、任せればよい。

初心者が、定の修習における、正行の部分を実践する時、余り長時間取り組むのは良くない。

一回につき、30 分ほどがちょうどよい。

座禅・瞑想の時間の長短が重点なのではなく、座禅・瞑想の要領を体験し、座禅・瞑想の滋味を味わうのが、良い。

心境の体験と定力の上昇に伴って、座禅・瞑想の時間は、自然と、徐々に増進するものである。

毎回の座禅・瞑想において、心境は、それぞれ同じではありえない。

ある時には、心は容易に静まり、ある時は、心が静まるのが難しい。

定の修習における正しい態度とは、何分かできれば何分か(+で満足し)、(+己に)無理強いしないのが、肝要である。

内心の感受(+力)に関して、敏感であるよう(+心を)育成し、心が、座禅・瞑想を終了させたいと思ったならば、座禅・瞑想を終了するのが良く、無理やり座り続けるのは、良くない。

毎回の座禅・瞑想において、自然で愉快な気持ちで、実践する事。

定の修習において、非常に重要なのは「興味がある事」である。

心をして、自然に、定の良さを味わいせしめ、自然に、定の修習がしたくなり、定の修習が好きになるようにする。

故に、定の修習においては、決して急いだり、焦ったりしてはならず、急いだり、焦ったりすると、思いがけない副作用が出る事が有る。

心をして、求める所無く、悠々として、遊々(=余裕のある様)であればあるほど、定力の育成には、有益である。

また、定の修習の利益について書かれた本や、定の修習の成就者の軌跡が書かれた本を読んだりして、心を定の修習に向かわせる事は、大変に益のあることである。

しかし、だからといって、心を急がせ、速さを競う事は、絶対にするべきではない。

焦れば、かえって進展は遅々とし、取り返しのつかない失敗をする。

古人が言う「ゆっくり修行して、速くに到達する(=急がば回れ)」は、非常に合理的な格言である。

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(2-14につづく)

Idaṃ me puññaṃ nibbānassa paccayo hotu。 

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<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

 

☆「掌中の葉」(翻訳文)2-12

もし、修行において、「自在」に遍重しすぎて、「体験」を軽視したならば、軽安、定、捨の三覚支のパワーが、択法、精進、喜の三覚支より強くなってしまい、その結果、心は、懈怠の方へと傾いてしまう。

反対に、もし、修行者が「体験」に重きを置きすぎて、「自在」を軽視したならば、択法、精進、喜の三覚支が、軽安、定、捨の三覚支より強くなり過ぎ、その結果、心は、浮つきの傾向へと傾いてしまう。

上述の二つの状況において、七覚支が不均衡な為に、心の力は、最も佳い効果を発揮することができず、定力も、順序良く深まるという事がなく、無理やり一定程度の定力を得ることができたとしても、それ以上維持し、深まることがない。

自在と体験は、同時に配慮しなければならないもので、自在なる心境でもって、目標を体験するのである。

両者は、相補い合うものであって、どちらかに偏ってはならない。

このようにして、細心に味わい、修行を積み重ねれば、定力は自然に深まり、安定して、持続するようになる。

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(2-13につづく)

Idaṃ me puññaṃ nibbānassa paccayo hotu。

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<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay> 

 

☆「掌中の葉」(翻訳文)2-11

【自在とは何か】

定の修習において、重要な一つの秘訣は:

自在に体験する事、である。

「自在」とは、心に求めるものがなく、障礙のない(+心理)状態であることを言う;

「体験」とは、目標の感受である。

ここでは、「自在」と「体験」という二つの項目が述べられているが、両者とも、同じく重要である。

修行者が、目標を自在に体験する時、それは、(+心が)バランスのとれた状態にある、と言える。

七覚支と照らし合わせてみると、「自在」には軽安覚支、定覚支と捨覚支が含まれていて、「体験」とは、択法覚支、精進覚支と喜覚支であることが分かる。自在と体験の両者・双方には、念覚支が含まれている。

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(2-12につづく)

Idaṃ me puññaṃ nibbānassa paccayo hotu。 

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<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

☆「掌中の葉」(翻訳文)2-10

【如実とは】

「1%は1%、2%は2%」。

ここで言う「如実」とは、<今・ここ>の境界がどうあろうとも、そのありのままに、それを体験することを言う。

すなわち、1%なら、1%分の体験をすればよい、のである。

定の修習をしていて、(+瞑想の)縁に取った目標が、1%分、はっきり見えたならば、その1%で満足する。1%分、明らかになったなら、そのままのそれを体験し、何等の操作を加えない。

(+観察している)目標が、1%から突然100%にはっきり明瞭に観えたならば、その様子をそのまま体験し、興奮もしないし、傲慢にもなららない。

100%観えていたものが、突然1%しか見えなくなっても、そのまま1%だけ体験すればよいのであって、がっかりもしないし、恋々ともしない。

「1%は1%、2%は2%」の秘訣を掌握したならば、<今・ここ>を生きていることになる。

境界が如何様に変化し、発展しようとも、心は常に、如実に<今・ここ>を体験しており、分心することがない。

これが最も良質な、正念と正知である。

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(2-11につづく)

Idaṃ me puññaṃ nibbānassa paccayo hotu。 

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<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

是誰庵のひとやすみ~愚僧による無我に関する覚書(レベル低いかも)

仏教で言う「無我」、これは何であるか、なかなか説明が難しいです。

大きく分けて、テーラワーダの<無我>と、大乗禅宗系の<無我>が微妙に、というか、大いに違う(ように私には思える)。

テーラーワーダで言う<無我>は、

(1)己の人格は架空である、という事(修行して既有の<自我>が崩壊するのを体験して、<無我>と言う)。

(2)素粒子レベルの色聚(ルーパ・カラーパ)と心を、深い禅定に入って観察すると、それは誰のコントロールも受けていない事が分かる。

すなわち、五蘊が、刹那に、縁生・縁滅するのを<無我>と言う。

(3)誰のコントロールも受けないものは、誰かによって所有する事もできないので、<無我(無我所有)>である。

などと定義できる。

そして、上記に関連した内容の体験を、禅宗の人に報告すると(1)には賛成でも、「まだ、俺様が<無我>を観ている、という俺様意識があるうちは、ダメだ」と言われてしまう。

日本の禅宗では、(2)(3)は、余り言わない。

では、もう一つ、別の問題の建て方。

滅尽定という深い禅定に入って、色蘊と心を合わせた五蘊が、同時に消滅しているのを、観察できた時(その方法は、パオ・メソッドにて説明されている)、では、心、すなわち、意識が完全に滅している状態で、五蘊が滅していること自体を<知っている>のは誰か?という事(禅定から出て来て、素の意識に戻って、滅尽体験を説明する訳ですから・・・知っている・・・のですよね)。

A「<無我>の悟り体験(自我の崩壊体験)を、観ていた誰かが、いてはならない」

B「滅尽定は、見届ける誰もいない(私は観た、と言ったら、それは滅尽定ではない)」

C「滅尽定は、見届ける誰かがいるからこそ、滅尽定と分かる」

仏教界では、上記ABC、三種類の概念が混同して語られ、私のような愚僧は、「???」状態。

その上に、

D「人は永遠に、本当の自分に、会うことは出来ない(自分探しは無駄)」(ヤージュニャバルキア)で、この事を「私はいない(無我)」と表現することがある。

E「念の力が弱く、瞑想中、瞑想の対象を見失って、有分心に落ちると、涅槃体験したと錯覚するタイプの人がいる」

という説もあるから、ややこしいことこの上ない。

議論して、相手を打ち負かしたとて、堂々巡り(どうやら<私><我>という言葉で、各々、異なる情景を説明しているのではないか、と思われる。ルール抜きの、空相撲みたいな)

私は、CとDの組み合わせが好きだけど、正しいかどうかは、分からない。(1)と滅尽定体験が同じなのかどうかも、よく分からない。

論より体験。

修行あるのみ。