仏教と《バガヴァット・ギーター》の違い~
次に、私は再び《バガヴァット・ギーター》の
中から、いくつかの詩節を引用して、それらが
指し示す教法は、ほぼ区別ができない程、仏教
と非常によく似ており、両者は共に、相似て
いる本質を有している事、唯一の差異は、
その中の一つには「自我」があり、もう一つの
中には「自我」がないということ(+を説明し
たいと思う)。
(十四)虚偽なる者は、真実には存在しない
(訳者注)。真実なる者は、永遠に存在する。
両者における真理は、ただ、すべての事物を
見通すことのできる真正なる「自我」によって
のみ、知られることができる。
(第二章、第16詩節)
(十五)この粗い肉体の「自我」は、永遠に、
行為の影響から離脱することができない。
すでに行為、行動の中から解脱したソレ
(自我)は、正確・適切に「すでに真正なる
解脱をした人」と呼ばれるべきである。
(十六)いまだ行為を手放していない人につい
て言えば、善と悪、そして、善悪の果報を
兼ねて具備することは、彼らの行為の果報で
あるが、すでに解脱した人について言えば、
すなわち、後有を受けないのである。
(第十八章、第12詩節)
(十七)すでに解脱した人は、清浄と智慧に
あふれており、かつ、全く懐疑というものが
ない。「彼」は、端正なる行為に対して、
怒るということはないが、端正でない行為を
行う事は、決してない。
(第十八章、第10詩節)
(十八)(+その人の)心智はいかなる事物
にも執着せず、自己を調伏する。その上、
完全に貪愛を取り除いた人は、執着を
断っているが故に、すべての束縛から完全に
解脱している所の、最高の境地に到達して
いる。(第十八章、第49詩節)
(十九)おお!あなた!昆帝(Kunti)家族の
構成員、すでに、最高の境地に到達した人が、
如何にして永恒を持することができるのかと
いうことを、私の所から(+その知識を)
知り得るが、これこそが、最高レベルの知識
なのである。(第十八章、第50詩節)
(二十)自己を浄化できる智慧を追い求め、
不断に自己を正し戒め、音とその他の器官の
外塵を捨て去り、かつ、愛と恨を、滅し、
除け。(第十八章、第51詩節)
(二一)寂静なる場所において、沈静を保持
し、少欲知足であり、身・口・意を調伏し、
常に禅の修習をし、かつ、煩悩のない人を
拠り所とせよ。(第十八章、第52詩節)
(+ )(= )訳者。(つづく)
訳者注:虚偽なる者は真実なる存在では
ありえない、とも訳せる。
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翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>