仏教は「自我」を取り除いてのみ
涅槃を証悟できると言う~
前述(No77 )の文言から、ジャイナ教もまた、
仏陀がパーリ経典《布咤婆楼経》において
述べたとおりの、無形の形体ーー意識ーーを
否定しているのと同じく、粗い肉体と霊体を
否定していることが分かる・・・というのも、
ソレが追及する所の目標は、業力から解脱した
境地なのであるから。
故に、一人一人の学習者には、再度しっかり
と覚えておいて欲しい。この教派の観点と
仏教の観点は、どれほど似ているだろうか、
ということを。
もし、我々が心ここにあらずして、自分の
考えで(+仏教の)教義を解説したならば、
我々は知らず知らずの内に、仏教の教理を
その他の教派の教義と混同・曲解してしまう
ことが起こるだろう。
ここで言う所の「どれほど似ていることか」
とは、この二種類の教理は、大部分の所では
同じであり、部分的に差異があるだけで、
特に違う所は、仏教には「自我」の観念が
ない、という部分である。
仏教は、一人の人が、徹底的に自我感を排除
したときにのみ、涅槃に到達する事ができる、
と言う。
この種の観点は、その他の教義と比べて、
ただ小さな一歩しか違わないけれども、
しかし、我々が子細に注意を払わなければ
ならないのは、我々の教義は、この小さな
一歩の故に、その他の教義と完全に異なる
ものとなった、ということである。
仏教は、智慧を証悟する時、完全に「自我」
を取り除くが、その他の教義においては、
依然として「自我」が存在する。
我々は、依然として「自我」の存在する智慧
が正見である、という言い方を受け入れる事
はできない。
このジャイナ教の大師は、続けて言う:
清浄なる境地における「自我」と、以前、塵俗
の世界において汚染された、または隠されて
いた「自我」は、同じものであり、か
つ、その始めからずっと、我々の元々の
「自我」であったものである、と。
しかし、汚染された時、ソレは自己を見失う。
というのも、塵俗の世界または煩悩がソレを
たもの)が「自我」となるからである。
真正なる「自我」は、本質的には、解脱を
得るために奮闘努力するものであり、または、
塵俗の世界からの解脱を勝ち取るものであり、
かつ、常に、これをもってソレの使命と
するものである。
これこそが、《羅摩衍那》(Rāmāyaṇa)の
詩節の中に書かれていることである:
小鳥は生まれながらにして飛べる、
河は、当然、(+下流へと)奔流する、
「自我」の存在は、ソレの任務を完成
する為である。
この理論は、明確に以下の事を主張する。
人は、解脱しているかいないかにかかわらず、
いつもずっと「自我」を擁している、と。
この部分は、仏教の教理と大いに異なる。
振り返って、上帝(=神)を信じ奉ずるインド
哲学について思いを馳せる時、我々は、
彼らの、この方面における卓越した創意を、
もう一度確認することになる。
彼らは、上帝こそが「自我」であり、他の
ものではありえない、という。
「自我」は万事万物に遍在しており、存在
しない所はなく、「自我」を上帝として
尊敬する人は、ソレを「梵」と呼ぶ。
彼らは、「梵」を擬人化された上帝と見做す
のは、比較的低レベルの考えで、これらの
人々が、更に智慧に富み、「梵」とは何か、
「自我」とは何かを理解できるようになる前、
彼らに(+真理を)このような形で理解
させるのは、必要なことなのである、と言う。
という事は、「梵」を擬人化された上帝と
考えるのは、ちょうど家の周囲を取り囲んだ
壁、または鎖のようなもので、主な用途は、
彼らを束縛し、このことによって、彼らが
比較的強固な堅信なる信仰を持つように
するものなのである。
この点を鑑みて、私は突然、我々自身の事に
思いを馳せた。
涅槃を真正なる「自我」だと比定するのも
同じことで、それはまるで家の周囲を
取り囲んだ壁を造るようでもあり、または
縄で囲うようでもある。
その主要な目的は、彼らを真正なる教義の中
に引き入れることである。
これは、彼らを孤独にして、拠り所にできる
どのような「自我」もないという状況の下に
おいておくよりは、まだましなのであって、
後々になって、彼らは、己自ら、この種の
最後の「自我」を捨て去ることができる
かもしれないのである。
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。
(つづく)
★誤字脱字を発見された方は、当コメント欄
にてご一報頂くか、または<菩提樹文庫>まで。
ご協力、よろしくお願いいたします。
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>
、