Sayalay's Dhamma book

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ブッダダーサ尊者著「無我」(翻訳文)ー80

西洋の学者の「自我観」

「自我」は永遠不滅の霊魂~

Baij Nath Khanna は彼の著作《バガ

ヴァット・ギーターの光》の中で、以下の観念

がよく理解できるように、我々を導いてくれる。

「自我」は業力の影響を受けず、ソレは神の

領域にあり、物質世界とソレは無関係で、

「自我」は至高で無上なるものである。

上帝(=神)は、永恒であり、それは時空の

制限を受けない;無生のものであり、ゆえに、

永遠に死ぬことはない。

「自我」は全くもって、壊滅したり死亡したり

することはなく、ソレには始まりもなく、故に

終わりというものも、ない。

 

これらの説明は、当該の宗教の信徒にとって

は、極めて心を奮い立たせるものである。

というのも、これらの説明は、彼らをして、

一人の人間の真正なる「自我」は「自我」で

あり、上帝もまた「自我」であるならば、

両者はおなじものとなるからである。

または、もっとはっきりと言ってしまえば、

上帝は全体で、一人一人の個人は、その部分

であり、「自我」が時空の制限を受けないが

故に、時間、長短、または如何なるものを

もってしてもソレを量ることはできない。

故に、小さい「自我」というものもなく、

大きい「自我」というものも、ない。

事実上は、ソレは同じものである。

一人の、「自我」を知る人間は、上帝と合一

して一体となる。上帝は「宇宙我」であり、

世界の全体に存在する人々は、また同じもので

ある、と言うこともできる。

すべての生物もまたこのようで、そして、

それは唯一の(+存在である)霊魂であり、

言い換えれば、それは世界または人類の本質

である。

この道理が分かる人は、霊魂と合一して、

一体化することができる。

これは、キリスト教で言う所の、人は上帝と

一体になる、と同じで、最後には永遠に

一個の「自我」が残る。

それがいわゆる、永恒なる「自我」である。

前に述べた言い方によれば、読者は、まずは

甲乙の評定を試してみるべきだ。

この種の「最高修法者の自我」の論点は、

どれほど高くて深いもの(または精妙で

深いもの)であるか、また、読者は、更に

一歩進んで、以下の事を予想することが

できる。

もし、この種の主張を超越するような哲学が

あれば、それはなんと精妙で深いものである

ことか!

そして、特別に、この種の哲学は他でもなく、

それは仏教哲学だった、という訳である!

振り返って仏教哲学を評定する前に、我々は、

西洋の哲学に越境して、その中に、異なる

「自我観」がないかどうか、彼らの言う

「自我観」が、前に述べたものより、より完璧

であるかどうか、研究してみたいと思う。

しかしながら、歴史的資料を見てみるに、

「自我」の哲学が、仏陀の時代のインドに

おいて、すでに澎湃として発展している時、

ヨーロッパでは、いまだ「無為法」哲学の陽光

を浴びることはなかった(この種の哲学に関

して、何一つ知らず、無知であった)。

仏滅の後、少し時代が下ったローマ時代、

ヨーロッパはようやく、この種の学説に少し

ばかり触れることができるようになったが、

その大部分は、社会学の方面の学説であった。

ヨーロッパにおける形而上学の発展と成就は、

近代になってからの事である。

いわゆる形而上学とは、心霊と神秘的自然

(+現象)の学説であり、そして、疑いも

なく、東方の哲学の観念は、すでに広範囲に

西洋思想の基礎の中に、滲みわたっている

のである。

というのも、フェニキア人とバビロン人は、

遠く仏陀の時代より以前からインドと接触して

おり、故に、西洋哲学が形成されるより以前の

古代において、インドとパキスタンをつなぐ

陸路は出来上がっていたのであり、

いくつか(+の道路)は遠くローマに通じて

いたのである。

しかし、我々は、今は歴史を語らない。

ただ、その始まりから現在に至るまで、西洋の

哲学が発展した基礎とは何かを問題にし、

かつ、今現在手に入る資料の中から、

彼らの「自我観」を研究してみたいと思う。

それぞれの時期における西洋の哲学者は、

東方の哲学者と同じく、大きく二種類に

分けることができる。

その一つの派は、「自我」はあると言い、

もう一つの派は、「自我」はないと言う。

「自我」があると主張する学派の哲学は、

に、道徳的な観点に立つ学説と、行為因果論

と業力の宗教からきており、故に、彼らは行為

の執行者として、または行為の果報の受取人

として、また、苦痛を恐れた為に、「自我」を

必要としたのである。

「無我」を主張する学派の哲学は、物質主義

によって生じた、科学的な理念から来ており、

その後に、心理と精神のレベルへと発展した

ものである。

この派の「無我観」が過度に発展した時、

虚無主義が生まれた。

ただし、ここでは、我々はただ「自我」に

関する観点をのみ検討し、かつ彼らの発展の

レベルを研究してみようと思う。

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ

(つづく)

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ブッダダーサ尊者著「無我」中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>