Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

パオ・セヤドー講述「菩提資糧」(翻訳文)~212-7

もし、禅相があなたの顔から遠く離れた所に出現した時、それに注意を払ってはならない。

というのも、それは消失する可能性があるから。もし、それに注意を払わないでいて、接触点を通過する息に対して、引き続き、ただただ専注することだけを実践するならば、禅相は、自動的にあなたの所に移動してきて、接触点上にとどまる。

もし、禅相が接触点において出現し、かつ、安定しており、また、禅相が息でもあり、息が禅相でもあるようであるならば、この時、息を忘れて、禅相に専注することができる。

このように、注意力を息から禅相に転換することによって、あなたは更に進歩するであろう。

注意力を保持して、禅相に専注するならば、あなたはそれが、ますます白くなることを発見する。それが、白くて綿のようになったならば、それは取相(uggaha-nimitta)である。

あなたは、決意して、静けさを保ちながら、その白い取相に、一時間、二時間、三時間またはもっと長時間専注できるようにしなければならない。

もし、取相を継続して、一時間、または二時間、専注することができたならば、あなたは、それが清らかで、明るく、光っていることを発見するに違いない。

これこそが似相(paṭibhāga-nimitta)である。

この段階に到達したならば、あなたは心をして、似相に、一時間、二時間または三時間、(+それが成功するまで)、専注させるのだと決意しなければならない。

この段階において、あなたは、近行定(upacāra)または安止定(appanā)に到達しつつある。近行定は、(ジャーナに入る前の)非常にジャーナに近い定である:安止定はジャーナである。

この二種類の定は、似相を目標とする。

二者の違いとは:近行定の諸禅支は、いまだ完全で強力にはなっていない。それが原因で、近行定においては「有分心」(bhavaṅga)がいまだ生起する可能性があり、それゆえ、修行者は、有分心に落ち込むのである。

この現象を体験した修行者は、一切が停止した、と言ったり、またはこれは涅槃であるとさえ言う事があるが、実際は、心はいまだ停止しておらず、ただ、修行者に、十分な能力がないために、それを知ることができないのである。というのも、有分心というのは、非常に微細なのであるから。

有分心に落ち込むのを避けるために、また定力を高めるために、あなたは5根の助けを借りなければならない。

すなわち、信(sadhā)、精進(vīriya)、念(sati)、定(samādhi)、慧(paññā)でもって、心を奮い立たせ、かつ、心をして、似相に固定させるようにするのである。

あなたには精進が必要で、それでもって、心をして、何度も似相を覚知するようにしなければならない;あなたには念が必要で、それでもって、心をして、似相を忘れないようにしなければならない。あなたには智慧が必要で、それでもって、似相を知らなければならない。

ここにおいて言う信とは、安般念の修行によって、ジャーナに入れることを信じること、を指す。

精進とは、安般念を修行してジャーナに至れることを指す。

念とは、安般念の目標を忘れないということを指す。

定とは、心において、まったくの動揺なしに、安般念の目標に専注することを指す。

慧とは、安般念の目標に対して理解があることを指す。

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(つづく)

★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>まで。

ご協力、よろしくお願いいたします。

<パオ・セヤドー講述「菩提資糧」1999年中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>