彼は随観(anupassati)・・・:彼は禅智によって、作意を保持し、入息と出息の身(=全体)または禅相について、それを見ることを安定的に持続させ、かつ、観智でもって(作意を保持し、安定的かつ持続的に)色身と名身を見ること。
これが、なぜ「身を身として観ずる随観の育成の念処」と言われるか;その含意は、以下の通りである:三種類の身(=息)を観ずるのは、本性が無常である身を常として観ずるわけではないーー水の無い所の蜃気楼を見る様にーーではなく、その本性を無常・苦・無我、不浄として観るか、またはそれをただ身(=息)であると見做し、それを「我」とか「私の」とか、または「女性」または「男性」などの、なにかの存在であると観ずるのではない。
当該の身髄観に相応する念は「建立(=打ち建てられた)」で、当該の念の育成と成長は、身髄観に属する念処の育成に属するものである。
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(4-42につづく)
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<パオ・セヤドー「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>