南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

翻訳『禅修指南』13-8(449/520)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

《七非色観法》(Arūpa Sattaka vipassanā)

七種類の非色観法がある。

すなわち、聚によって、双によって、刹那によって、次第によって、除見によって、去慢によって、破欲によって(kalāpa、yamaka、khaṇika、paipaṭi、diṭṭhi uggahāṭna、māna samugghāṭana、nikanti pariyādā na)。

(一)聚観法

七色観法の中の、色法を無常(または苦、または無我)として「修観の心」を観照し、次に「後生修観の心」を、無常(または苦、または無我)として観ずる。この観の修習法は聚観法と言う。

七色観法の中の色法を、一体のグループに纏めて、それらを「取捨色」などとして分ける事なく、それら全体を無常として観ずる。

上に述べた色法を無常として観ずる修観の心に関して、後生修観の心でもってそれの無常を観ずる;

次に、後生修観の心でもって、それを苦を観ずる;

及び、後生修観の心でもって、それの無我を観ずる。

また、七色観法の色法の全体を苦として、この、色を苦として観ずる修観の心を、後生修観の心でもって、それの無常を観ずる;

次にそれを苦として観じ;

及びそれを無我として観ずる。

また、七色観法の中の色法の全体を無我とし、この、色を無我として観ずる修観の心を、後生修観の心でもって、それの無常を観じ;次にそれを苦として観じ;及びそれを我として観ずる。

これがすなわち、聚観法であり、すなわち、七色観法の中の色法を、一体のグループにして、これを観ずる観法である。

前生修観の心と後生修観の心

《アビダンマ論註》の中における、智分別(Ñāṇa Vibhaṅga)の註釈では、凡夫と学者の修観の心は、大善速行意門心路過程であると、言及している。

’Sekhā vā puthujjanā vā kusalaṃ aniccato・・・’

 「有学聖者と凡夫は、善法を無常、苦、無我として観照する。善速行(vipassanā kusala javana)の滅尽を観じた後、欲界果報彼所縁はその後に生起する。

’Taṁ kusalassa javanassa ārammaṇabhūtaṁ 

vipassitakusalaṁ ・・・’

彼所縁の欲界果報心として生起し、善速行の目標を観ずる善法を目標として取る。(Abhi-com)。

上に述べた経典によると、彼所縁は初観速行(taruṇa vipassanā  javana、すなわち、未成熟の観速行)の後において、生起する事が出来る為、注意する事。

Tilakkhṇārammaṇikavipassanāya tadārammaṇaṁ

na labbhati. Vuṭṭhānagāminiyā ・・・.

上に述べた経典のよると、彼所縁は強力な観速行(balava vipassanā  javana)の後に生起することができない、という事に注意する事。

表12-1 : 観速行意門心路過程(略)

一性理(ekatta)に基づいて、観速行意門心路過程全体は、以下の様に呼ばれる:

1、無常を観ずる心:苦を観ずる心:無我を観ずる心。

2、第一心、第二心などなど。

3、前生心と後生心。

その理由は、一番目の観速行意門心路過程の中で、その目標は七種類の色観法の中の色法であるからである;

二番目の観速行意門心路過程の中で、その目標は、第一番目の観速行意門心路過程、すなわち、名法である。

同一の一個の心路過程の中で、一心が色を目標に取り、もう一つ別の一心が名を目標に取ることは不可能である。

故に、色を目標に取るのは、一個の心路過程であり、名を目標に取るのは、また別の一個の心路過程である。

一性理に基づけば、いわゆる前生心または後生心とは、心路過程全体の事である旨、理解する必要がある。

彼所縁はある場合もあり、ない場合もあり得る。

もし、彼所縁が生起したならば、状況に応じて、それは無因でったり、有因彼所縁であったりする。

(二)双観法

取捨色を無常として観照した後、次に後生心でもって、修観の心を無常として観照し、次に苦として観じ、及び無我として観ずる。(取捨色を苦と無我とする、修観の心の、その観法は上と同様である)。

年齢の増長に応じて消滅する色、食所成色、時節所成色、業生色、心等起色と法性色の観法もまた同じである事に注意を払う事。

聚観法において、七色観法の中のすべての色法を一体として、別けて観照されるものはない、とする;

双観法において、それらは個別の観法の色として分類する。

一つひとつの観法を徹底的に観ずるべきである。

特に年齢の増長によって消滅する色に関しては:

生命の各々の段階において、それらの色法を観照し、次に、修観の心を観照する。たとえば、初齢の色法を観照し、その後にその修観の心を観照する:次に、中齢の色法を観照し、その後に、その修観の心を観照するなど等である。その他の色法の観法もまた、同様である事を理解する事。

(三)刹那観法

取捨色を無常として観じ、その後に:

1、第二心(第二観速行心路過程)でもって、一個目の修観の心を無常として観照する。

2、その後に、第三心でもって、第二心を無常として観ずる。

3、その後に、第四心でもって、第三心を無常として観ずる。

4、その後に、第五心でもって第四心を無常として観ずる。

(順序良く繰り返しそれらを苦として、無我として観ずる)

取捨色を苦、無我として観ずる観法もまた同様である事を理解する。

その他の色(たとえば、年齢の増長によって消滅する色)の観法もまた同様である。

七色観法に基づいて、一つひとつの種類毎の観法の中の色法を観照する。一つひとつの種類毎の観速行心路過程は、皆、連続して四回、後生心(後生心路過程)によって、前生心(前生心路過程)を観ずる。

(四)次第観法

取捨色を無常として観照した後、次に、連続して、以下の後生心でもって、前生心を無常として観ずる:

1、第二心でもって、第一心を観ずる;

2、第三心でもって、第二心を観ずる;

3、第四心でもって、第三心を観ずる;

4、第五心でもって、第四心を観ずる;

5、第六心でもって、第五心を観ずる;

6、第七心でもって、第六心を観ずる;

7、第八心でもって、第七心を観ずる;

8、第九心でもって、第八心を観ずる;

9、第10心でもって、第九心を観ずる;

10、第11心でもって、第10心を観ずる。

それらの苦と無我も観ずる事。(取捨色を苦とし、無我として観ずる観法もまた斯くの如くであることを理解する;その他の色の無常、または苦、または無我を観ずる観法もまた同様である。)

(五)除見観法

徹底的に、行法を無我として観ずるのは、すなわち、除見である。

無常随観智と苦随観智の、親依止縁力の支援の下、無我随観智は、見(我見)を断じ除く事ができる。

(六)去慢観法

徹底的に、行法の無常を観ずるのは、すなわち、去慢である。苦随観智と無我随観智の親依止縁力の支援の下、無常随観智は我慢(=傲慢、高慢)を断じ除く事ができる。

(七)破欲観法

徹底的に、行法の苦を観ずるのは、すなわち、微細愛(taṇhā)に属する欲(nikanti)を断じ除く事ができる。

無常随観智と無我随観智の親依止縁力の支援の下、苦随観智は愛を断じ除く事ができ、それ故に、愛は生起する事ができない。

注意

もし、ただ行法を無我としてのみ観ずるならば、無我随観智は、見を断じ除く事はできない;

もし、ただ行法を苦としてのみ観ずるならば、苦随観智は、愛を断じ除く事はできない;

もし、ただ行法を無常としてのみ観ずるならば、無常随観智は、慢を断じ除く事はできない;

どの様な随観智も、必ずその他の二者の随観智の支援を受けて初めて、対応する所の煩悩を断じ除く事ができる。

(《清浄道論》)。

上に述べた指示に従えば、名色法、五蘊法と縁起法において、徹底的に、三時の内外の行法の三相を観照した後、次には、少なくとも一回の座禅・瞑想の時間において、これらの行法を以下の様に観ずる:

1、無常に過ぎない。

2、苦に過ぎない。

3、無我に過ぎない。

三時の内外の行法の観照に関して、已に熟練に到達した無我随観智を擁する禅修行者は、行法に対して、我想が生じるものであろうか?

同様に、行法の観照に関して、已に熟練に到達した無常随観智を擁する禅修行者は、行法に対して、常想が生じるものであろうか?

「我、我」に執着する所の慢見は、如何にして生じるのであろうか?

慢見は唯一、常想を持つ者に生起する。

同様に、行法の観照に関して、已に熟練に到達した苦随観智を擁する禅修行者は、行法に対して、楽想が生じるものであろうか?

愛欲(taṇhā nikanti)は、唯一、行法に対して楽想を持つ心流の中にのみ、生起する。

こうしたことから、苦随観智が已に熟練に到達した禅修行者には、愛欲は生起することができないのである。

熟練への到達

Ettāvatā  panassa rūpakammaṭṭhānampi

arūpakammaṭṭhānampi paguṇaṁ hoti.

ーー「もし、熟練して、七色観法と七非色観法によって、内と外とを観ずる事ができるならば、禅修行者は已に、色業処と名業処において熟練しているのだと言える。」

もし、内外に、過去、現在と未来を観照できるならば、それは尚良い。

(13-9につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi> 

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijubunko.sakura.ne.jp/index.html

<本雅難陀尊者(Ven. U Puññānanda)著 『禅修指南』Meditation Guide 第二版  中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>