『涅槃証悟の唯一の道』 パオ・セヤドー著(3-75)
<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
結論
上述の論考は、序論に過ぎない。
故に、我々は、なぜ、心随観と法随観の修習においても、五蘊のすべて、四念処のすべて、及びその生・滅(正順と逆順の縁起)を観照しなければならないのか、という事をこれ以上解説する必要は、ないかもしれない。
仏陀は、一つの随観毎に、同様の方法を用いて、vipassanā を教え、教導しているが、その意味は、初めから終わりからまで、変化することなく同じものである・・・すなわち:
vipassanā の所縁が同様であるが故に、vipassanā の修習もまた同じなのである。
この事に対して、我々はすでに、多くのパーリ聖典を引用して、多方面の解説を行った。
《大念処経》の一つひとつの部分において、仏陀は vipassanā に関して、非常に簡略的な指示、簡潔な説明であるものの、それは、禅修行者に対して、五蘊のすべて(四種類の念処すべて)を無常・苦・無我として観照する事を、要求するものなのである。
故に、禅修行者は、まず先に、ひとつひとつの現象を識別し、区分できなければならない:
身の身において、受の受において、心の心において、法の法において。
前に述べた様に、禅修行者は、これより以前に、充分な定力を育成しなければならない。
こうしたことから、仏陀は《大念処経》の四種類の身随観の部分と、法随観の最初の部分において、止(=サマタ)の修習を指導したのである。
仏陀の四念処に関する解説が、字面の上では、異なっている様に思えても、しかし、究極的な意義において、それは同じものなのである。
故に、我々は次の章で、《大念処経》の入出息について検討することになるが、この<序論>で述べた説明を忘れないで頂きたい。
仏陀の、《大念処経》における、最初の言葉を忘れない事:
”比丘たちよ。
これは唯一の道である
(ekāyano ayaṃ、bhikkhave、maggo)。
有情を清浄し、愁、悲を超越し、苦、憂を断じ除き、如理を得達し、涅槃を現証する。
これすなわち、四念処(cattāro satipaṭṭhānā)である。”
あなた方が、この ”唯一の道” を修習して、この
”一つの門” を通って、涅槃に到達します様に!
パオ・セヤドー
(3-76につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。
<『涅槃証悟の唯一の道』パオ・セヤドー著 (原題「証悟涅槃的唯一之道」)
中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>