<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
四念処=五蘊=一切
では、四念処とは何か?
それらは、念を建立せしめる所の、四種類の観照(注26)の対象である:
身(kāya)、
受(vedanā)、
心(citta)、
法(dhamma)。
我々はすでに、四念処が vipassanā行であることに触れたが、それはまた、五蘊でもある:(注27)
1)身随観身は、色蘊の随観に相当する;
2)受随観受は、受蘊の随観に相当する;
3)心随観心は、識蘊の随観に相当する;
4)法随観の中の、五蓋と七覚支は、想蘊と行蘊の随観に相当し:
法随観の中の五蘊、12処、四聖諦は、すべての五蘊を随観することに、相当する。
この様に理解すれば、五蘊を遍知する事、その因を断じ除く事、その滅を証悟とその滅に向かう為の(+心の育成の)修行とは、すなわち、四念処である事が分かる。
言い換えれば、四念処の修習とはすなわち、五蘊を遍知することであり、その因を断じ除き、その滅を証悟することと、その滅に向かう為の育成をする修行なのである。
そして、vipassanā行 とはすなわち、すべての五蘊、12処、身・心の二者、および四種類の念処のすべてなのである。
《六処相応・第一不遍知經》(Paṭhamaaparijayaṃ Sutta)の中において、仏陀は非常に明確に、三種類の遍知を通して一切を知る事を完成させなければならない、と述べている:(注28)
”Sabbaṃ、bhikkhave、anabhijānaṃ aparijānaṃ avirājānaṃ appajahaṃ abhabbo
dukkhakkhayāya. ”
”比丘たちよ。
一切に関して、証知しない者、遍知しない者、離棄しない者、捨断しない者は、苦を尽滅することはできない。”
(3-56につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。
<『涅槃証悟の唯一の道』パオ・セヤドー著 (原題「証悟涅槃的唯一之道」)
中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>