南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

『涅槃証悟の唯一の道』 パオ・セヤドー著(3-56)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

<注26>

仏陀は《獲得經》(Paṭilābba Sutta)の中において、

以下の様に言う:

”比丘たちよ。

四念処は念の獲得と関連がある。

比丘たちよ。

これを念根と言う。”

《無礙解道・念処論》(Satipaṭṭhānakathā)の中において、シャーリープトラ尊者は、身随観について、以下の様に解説する:

”身は建立処であり、念ではない

(kāyo upaṭṭhānaṃ、 no sati)。

しかし、念は建立処であり、また同時に念である

sati upaṭṭhānañceva sati ca)。

当該の念を通して、当該の智(ñāṇena)を通して、彼は身において随観する。”

<注27>

四念処は五蘊である:

《大念処経》の義註は以下の様に解説する:

仏陀が身随観を教え、教導する時(kāyānupassanāya)、

ただ色蘊摂受(rūpakkhandhapariggahob\va)(+を修習し)、

受随観の時はただ受蘊摂受(vedanānupassanāya)(+を修習し)、

心随観の時はただ識蘊摂受(viññāṇakkhandhapariggahova)

(+を修習する様に)と教え、

想、行蘊摂受をも検討するためもあって(saññāsaṅkhārakkhandhapariggahampi)、

次には法随観を教えた(dhammānupassanāya)。

(この二種類の蘊は、諸蓋の随観と覚支の部分に含まれる)

こうしたことから、五蘊のすべてを随観するとは、それらは蘊、処、諦の内に含まれるものである(+ということを意味するのである)。

故に、義註でも解説しているが、

身随観は純色摂受であり(suddharūpapariggaho)、

受、心随観は純非色摂受であり(suddhaarūpapariggaho)、

法随観はすなわち、色、非色混合摂受(rūpārūpamissakapariggahaṃ)なのである。

<注28>このほかに、仏陀は《相応部・一切無常品》(Sabbaaniccavaggo)の中においても、

一切を遍知するべき

(sabbaṃ abhiññeyyaṃ)、

一切を証知するべき(pariññeyaṃ)、

一切を捨断するべき(pahātabbaṃ)、

一切を証悟するべき(sacchikātabbaṃ)、

証智でもって一切を証知するべき(abhiññāpariññeyyaṃ)であると述べている。

(3-57につづく)

  <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。

<『涅槃証悟の唯一の道』パオ・セヤドー著 (原題「証悟涅槃的唯一之道」) 

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>