<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
<注26>
仏陀は《獲得經》(Paṭilābba Sutta)の中において、
以下の様に言う:
”比丘たちよ。
四念処は念の獲得と関連がある。
比丘たちよ。
これを念根と言う。”
《無礙解道・念処論》(Satipaṭṭhānakathā)の中において、シャーリープトラ尊者は、身随観について、以下の様に解説する:
”身は建立処であり、念ではない
(kāyo upaṭṭhānaṃ、 no sati)。
しかし、念は建立処であり、また同時に念である
(sati upaṭṭhānañceva sati ca)。
当該の念を通して、当該の智(ñāṇena)を通して、彼は身において随観する。”
<注27>
四念処は五蘊である:
《大念処経》の義註は以下の様に解説する:
仏陀が身随観を教え、教導する時(kāyānupassanāya)、
ただ色蘊摂受(rūpakkhandhapariggahob\va)(+を修習し)、
受随観の時はただ受蘊摂受(vedanānupassanāya)(+を修習し)、
心随観の時はただ識蘊摂受(viññāṇakkhandhapariggahova)
(+を修習する様に)と教え、
想、行蘊摂受をも検討するためもあって(saññāsaṅkhārakkhandhapariggahampi)、
次には法随観を教えた(dhammānupassanāya)。
(この二種類の蘊は、諸蓋の随観と覚支の部分に含まれる)
こうしたことから、五蘊のすべてを随観するとは、それらは蘊、処、諦の内に含まれるものである(+ということを意味するのである)。
故に、義註でも解説しているが、
身随観は純色摂受であり(suddharūpapariggaho)、
受、心随観は純非色摂受であり(suddhaarūpapariggaho)、
法随観はすなわち、色、非色混合摂受(rūpārūpamissakapariggahaṃ)なのである。
<注28>このほかに、仏陀は《相応部・一切無常品》(Sabbaaniccavaggo)の中においても、
一切を遍知するべき
(sabbaṃ abhiññeyyaṃ)、
一切を証知するべき(pariññeyaṃ)、
一切を捨断するべき(pahātabbaṃ)、
一切を証悟するべき(sacchikātabbaṃ)、
証智でもって一切を証知するべき(abhiññāpariññeyyaṃ)であると述べている。
(3-57につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。
<『涅槃証悟の唯一の道』パオ・セヤドー著 (原題「証悟涅槃的唯一之道」)
中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>