Sayalay's Dhamma book

中国語で書かれた仏教書(主にテラワーダ、南伝仏教系)を日本語に翻訳して公開。たまには<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。                    2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得る。 コメント欄はどなたも利用OKですが、リトリートに入っている時は回答致しません。

「メーチ・ケーウの物語」(翻訳文)5-36

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

”この光明空と、涅槃の清浄空を、同じものだと、誤解してはならない。

両者は、天と地ほどに、異なっている。

光明心とは、不断に輪廻する元来の心を含有しており、それは、純一で清浄に満ちているという事はなく、生死輪廻から解脱している所の心性ではない。

光明心は、非常に繊細で、自然な状態にあり、始終如一で、その光明と清らかさと明晰さは、その見かけ上、空(クウ)であると思わせてしまうものである。

これは、名相(=精神、意識の相)を超越する所の本性ではあるものの、しかし、涅槃ではない。

それはすでに、非常に清浄なる核心ではあるが、しかし、人をして魅了せしめる所の、壮観なる能知として顕現する。

”心が最終的に、形相(=姿かたち)と概念に対するすべての執着を放下する時、能知の核心は、極めて精緻な性質を顕すが、それはすでに、一切を放下しているものであるーー己自身を除いては。

それの真正なる本性は、依然として、根本無明の浸透を受ける。

故に、あなたが、意識していない状況の下で、光明の核心は、微細な形態の自我(=エゴ)に変化して、あなたをして、この微細な快楽感、楽しさの感じと光明をば、無為なる心性であると、信じさせる事になってしまう。

あなたは、これを無明とは意識できないままに、この壮観な心は、円満なる果証ではあるが、次の段階において、あなたはそれを涅槃、清浄心の究極空だと思い込んでしまう。

(5-37につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<原題「美琪喬ーー一位阿羅漢尼修道証果之道」Dhammavamsa Publication

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>