<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
心がすでに浄化されて、一切の干渉から徹底的に清浄かつ自由になった時にだけ、我々は、一粒の、一切の恐怖から自由になった心を見ることができる。
その後において、恐怖もなく、勇気もなく、残るのは唯一、心の真正なる本性であり、それは自然に独存し、時間と空間から永遠に独立する。
それだけが存在している。その他のものは存在しない。
これこそが真正なる心である。
”真正なる心” は、阿羅漢の絶対的清浄、有余涅槃のみを指すが、その他のもので、”真正なる心” と呼べるものは無い。
この詞を他のものに被せたならば、私は慙愧を覚えるものである。
”本来の心” とは、無尽に生死流転する所の心の本性を指す。
仏陀が ”比丘たちよ!本来の心の内在は、光明であり、徹底的清らかである。しかし、それがそれにクロスする煩悩と混同される事によって、汚染を受けるのである。” と述べる時、すなわち、この事を言うのである。
この観点から言えば、”本来の心” は、世俗諦の本来を言い、絶対清浄なる本来ではない。
本来の心に関して、仏陀は言う ”比丘たちよ!本来の心は、明るい(Pabhassaramidaṁ cittaṁ bhikkhave)。”
Pabhassara とは、明るく光るという事であり、清浄を意味しない。
彼の理由は絶対的に正しく、反駁の余地はない。
もし、仏陀が本来の心を、清浄なる心であると規定するならば、人々は即刻反論することができる:
”もし、心が本来清浄であるならば、それはなぜ、再生することがあるのか?”と。
阿羅漢の心は、すでに清浄である。
それならば、彼は、心を更に清浄にする必要はないではないか?
これは明確な異議であるーーそれを清浄にしなければならない理由とは、何か?
反対に、光明の心は、清浄にされる事ができる。
というのも、その光明は、無明の核心的本質であるが故に。
心が、この光明を超越して、絶対的解脱に到達した時、禅者は、己自ら真相を理解することができる。
その後にあっては、あの光明は二度と心に顕現することはない。
このようであって初めて、彼は真正に最終的な実相に覚醒したのだと言える。
(4-8につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<『阿羅漢向・阿羅漢果』 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>