南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

『阿羅漢向・阿羅漢果』1-42(45/100)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

今、心は、繰り返し、かつ不断に、休むことなく諸蘊を観察する時、それは純粋に、成熟してくる。

智慧によって、思惟を分別する事を通して、我々はまず、色蘊を捨棄することができる。

初期段階での観察において、智慧がその他の蘊をーー見透かしてーーかつ手放す前に、色身を見透かすのである。

その後において、心は同様の方式で以て、徐々に受、想、行と識への執着を捨棄する。

簡潔に言えば、智慧が、自我(=エゴ)の心理的構成を見透かす時、心はそれを手放すことができる;

それ以前では、それは執着して、手放すことができない。

ひとたび、智慧が、それらを徹底的に穿り、見通したならば、心は、それらのすべてを、手放すことができる。

心は、それらに関して、心理的な波動に過ぎない事、実質的な存在などない事を知り、認める。

好いものであろうとも、悪いものであろとも、念頭(=考え、発想)は、これまでと同じ様に、生起して、また滅し去る。

それらが、どのように心の中に、顕現しようとも、一瞬間を超えて存在する念頭など、一つもない。

念頭は、真正なる実質と意義に欠けており、継続して存在する事はできず、故に、それらは頼りにならないものなのである。

それなのに、何が、我々をして、不断に思考させるのか?

何が、それらを製造しているのか?

暫くすると、それは一つの念頭(=思いつき)を捻り出し、もう暫くすると、もう一つ別のものを捻り出して、永遠に己自身を騙し続ける。

それらは、色、声(音)、香、味と触から来ており、また、それらは受、想、行と識から来ている。

我々は、認知の段階から、当然の如くにそれらに同意するが、この騙しの局面が、大きな炎となって、我々の心を焼くまで、それを続ける。

心はまさに、これらの要素、これらの習気によって汚染される。

観察の目的は、これらの要素を取り除く事であるが、(+今)それらは取り除かれた。

心の、真正なる本性は、顕現した。

我々は見る事ができる・・・心が出かけて行って、対象に介入しさえしなければ、それは自然な安寧と静けさを保持して、発光する事を。

まさに以下のように言われるが如く:

”比丘たちよ!本来の心の内在は、光明で徹底的に清らかである。しかし、それが通って来た煩悩と混合されて一つになる時、汚染を受けるのである。” 

本来の心は光明なる心である。

この文言が指すのは、生死輪廻の内において、一生また一生と流転する心の、その元来の性質を言うのである。

それは、生まれたばかりの赤子に例えられるが、(+赤子の)心は、その官能がいまだ健全に発達していないため、感官の対象を、充分に掌握することができない。それは、すでに生死輪廻を超越した所の、絶対的清浄なる心の本質を、指すものではない。

我々が一つの段階、また次の段階へと、全面的に心を観察する時、それ以前において、四方に漫遊していた各種の汚染元素は、聚集して一つの光明点を形成し、心内の自然な光明と融合する。

この光明は、それほどまでに宏く偉大であり、たとえ大念住(supreme-mindfulness)と大智慧(supreme-wisdom)のような、卓越した心理的功能であってさえも、その始めにおいては、それの魅力に傾倒してしまう。

これは完全に新奇な体験であり、これまで経験したことのないものである。

それは驚異と殊勝を展開し、それ程宏く偉大であり、人をして敬慕・畏怖させるが、その時点では、それを比類なきものだと、思ってしまう。

なぜであるか?

それは絶対的な統治者であり、無量の劫において、三界を統治してきた存在であるが故に。

心が卓越した念住と智慧でもって、それから抜け出す力に欠けていれば、この光明点は、引き続き心を惑わし続ける。

無始以来、それは心を掌握し、支配して来たが、この微細な煩悩は、心に圧力を加え、それが業を造(ナ)すように迫り、心を圧迫して、不断に生まれ変わるよう強要し、無数のレベルの生命を、体験させるようにする。

最終的に、この繊細な、自然に放光する所の心は、生命の絶え間ない輪廻を引き起し、生死を遍歴し、経験する。

ひとたび、心が、徹底的に、もはや明確、明瞭に、受、想、行と識を知り尽くしたならば、残されたものは、唯一、心の内部における微弱な変化の揺らぎである事が知れるが、これは微細な行(sankhāra)が心内部において形成される(+ことのよって生じる)波動である:

一つの微細な形態の楽、一つの微細な形態の苦、一つの微細な光明が、心の内部において発光している・・・これがすべてである。

大念住と大智慧は、これら内在する所の攪乱に焦点を当てて観察して、不断にそれらを研究し、分析するのである。

(1-43につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<『阿羅漢向・阿羅漢果』 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>