<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
<総体的に、念頭(=考え、発想)と想像の源泉は>行蘊と呼ばれる。
一つひとつの念頭、一つひとつの考えは、心の中において、非常に短い時間、波動して(=揺らいで)、その後、消失する。
これらの心理的な波動は、本質的には、何か特別の意味を持たない。というのも、それらは、ただ覚知の中において、一瞬閃めいて後、痕跡を残さずに、消失するのである。
唯一、想蘊がそれらを手に取る時、それらはようやくにして、特定の意味と内容を持った思想と意見に変化する。
想蘊は記憶であり、認知と定義の(+働きをする)名蘊である。
想(saññā)は、念頭の断片を手に取って、その後、それを定義して、それらを拡充し、それらの意味を仮設し、それらを議題に変えてしまう。
次に、行(sankhāra)は、この議題をば、連綿として絶えることのない、妄想に仕立て上げる。
どのようであれ、想が主要な扇動者であり、行がひとたび、非常に短い時間、閃動したならば、想は即刻それを取り上げて、それを<あれ>とか<これ>とか定義するーーあらゆる騒動を引き起すのである。
この二者は、あらゆる面倒を製造する心理的な作用であり、二者は一緒になって、物語を語るーー幸福な話、悲惨な話ーーその後に、それらをば、自我(=己自身)にとっての真実であると定義する。
想は、記憶を頼りに、覚知から生起する所のものを分別・認定し、それらを定義し、それらに意義を付加しようとする。
行の生起と消滅には、明確な始まりと終焉があるが、それはちょうど雷の放電または蛍のように、チカチカとしている。
仔細に観察すると、想蘊は行蘊よりも、更に微細である。
行が覚知に闖入する事が、念頭(=考え、思いつき)の基本的枠組みとなる。
想は、念頭が閃動するが故に体験されるようには、体験されない。
心が完全に停止した時、諸蘊もまた非常に静かである時、我々は一つひとつ毎の、蘊が生起する方式を、明確に感知することができる。
想はゆっくりと拡散されて、心に浸透し、それは墨水が画仙紙の上で拡散するが如くに、心理的な絵柄を描くまで、ゆっくりと展開しつづける。
想の導きによって、不断に生起する行は、図像を作りはじめ、またそれに見合った物語を編纂し始める。
そしてその後に、彼らは、彼ら自身に生命を吹き込むのである。
先に想が、行の波動を分別し、定義して、それらをば、認識できる所の影像・イメージに仕立て上げる。行は、それに引き続いて、詳細な描写を行い、こうして、各種各様の思想(=考え)が形成される。
このふたつの心理的機能は、すべて自然現象であり、それらは同時に生起するが、それは、それらを知っている所の覚知とは、まったくもって異なるものである。
(1-42につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<『阿羅漢向・阿羅漢果』 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>