翻訳『禅修指南』13-4(411/520)
<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
《五蘊法》
禅修行者は、再度、処門によって、名法を観ずる(名業処の表参照の事)。
先に、再度、喜俱智相応大善速行の眼門と意門心路過程を識別する。一つひとつの心識刹那の色法を一組に纏め、名法を四組に纏める。
1、依処色(54)と色所縁は色蘊である;
2、一つひとつの刹那の中の受は、受蘊である;
3、一つひとつの刹那の中の想は想蘊である;
4、一つひとつの刹那の中のその他の心所は行蘊である;
5、一つひとつの刹那の中の識は、識蘊である。
その後に、順序よくそれらの三相を観照する。
1、色所縁を目標に取るその他残りの眼門と意門心路過程。
2、声所縁を目標に取る耳門と意門心路過程。
3、香所縁を目標に取る鼻門と意門心路過程。
4、味所縁を目標に取る舌門と意門心路過程。
5、触所縁を目標に取る身門と意門心路過程。
6、法所縁を目標に取る意門心路過程。
五門転向から意門心路過程に至る彼所縁(名業処表参照の事)は、以下の方法によって、順序よく一つひとつのグループの三相を観照する:
1、全体のグループの中の色だけを観ずる。
2、全体のグループの中の受だけを観ずる。
3、全体のグループの中の想だけを観ずる。
4、全体のグループの中の行(心所)だけを観ずる。
5、全体のグループの中の識だけを観ずる。
この様に観照する時、心路過程の間に出現する所の有分心刹那を、五蘊法でもって、観照する;法所縁を目標に取る所の意門心路過程の観法は、上と同じである。
五蘊法を運用して、内部の観察に満足したならば、次は、同様の方法を用いて、外を観ずる。近くから遠くへ、繰り返し、何度も、内、外と観ずる。
外部の観は、智が観照する範囲を徐々に広げていき、無辺世界に至る様にし、31界全体を観照の目標とする。
この様に、名法または五蘊法によって観禅の修習をする時、禅修行者は、「いまここ」(khaṇa paccuppanna、または現在刹那)に到達できる様、尽力する。
智が「いまここ」の刹那を観ずる事ができる様にするため、彼は、心路過程の間に出現する所の有分刹那の五蘊法を、「いまここ」の刹那の境になるまで、観照しなければならない。
五蘊法を運用して観照する事に満足した今、次に、五蘊法によって現在世(addhā paccuppanna、すなわち、結生から死亡に至るまで)の三相を観照する。心路過程心と離心路過程の二者に対して、それぞれ順序良く繰り返し(+観ずる):
1、色のみを観ずる。
2、受のみを観ずる。
3、想のみを観ずる。
4、行(心所)のみを観ずる。
5、識のみを観ずる。
無常を多数回観ずる事;
苦を多数回観ずる事;
無我を多数回観ずる事。
結生から死亡までの、一つひとつの蘊を観照する。
たとえば、結生から死亡までの色蘊を徹底的に観照した後初めて、同様の方法を用いて、受蘊を観照する。
内と外、交互に繰り返して観照する。
《同時に色法を観照する》
その後に、それらの壊滅または生・滅を目標として取り、順序良く繰り返しそれらの三相を観照する。
眼門心路過程を例にとるならば:
一つひとつの心識刹那の名色の生・滅(たとえば、五門転向の中の54種類の依処色と所縁色の生・滅と11名法の生・滅)を識別した後、順序良く繰り返し何度も、
ある時は無常を観じ;
ある時は苦を観じ;
ある時は無我を観ずる。
処門によって、すべての六門を観照する。
一切の内外の善と不善速行心路過程を観照する。
以下の方法を運用して、順序良く繰り返し、内外(名色)を観照する
1、色のみを観ずる。
2、名のみを観ずる。
3、名色を同時に観ずる。
その後に結生から死亡に至るまで;
1、色のみを観ずる。
2、名のみを観ずる。
3、名色を同時に観ずる。
この様に、已に生じた、今まさに生じている、これからまさに生じようとしている名色を全体的に観照する。次に五蘊法に基づいて、結生から死亡までを観照する。
《過去・現在・未来》
Aniccādivasena vividhehi ākārehi
dhamma passatti vipassanā.(Aṭṭhasālinī)
名色法を運用して、順序良く繰り返し何度も、現在世(結生から死亡まで)の名色を観照した後、もし、禅修行者が已に満足を覚えたならば、かれは次に過去、現在と未来の名色を観照することができる。
Aniccādivasena vividhehi ākārehi dhamma passatti vipassanā.
ーーこれは行法の種々の状態、たとえば、無常、苦、無我を観照する種々の方法である為、それは異観(Vipassanā)と言う。(Abhi-com) 上に述べた註釈が言う様に、究極行法の三相を観照している段階をのみ、異観(観禅)の修習であると言える。
注意する事:
いまだ、名色の究極智を証得していない時で、概念と究極法を分ける事なく、生起した法ならどの様なものでも、観照するならば、その禅修は、観禅とは言えず、観禅ではありえない。
己自身が識別することのできるもっとも遠い過去世の名色(結生から死亡まで)に関して、順序良く繰り返し何度も観照する:
1、色法の三相をのみ観ずる;
2、名法の三相のみ観ずる;
3、名色法の三相。
その後、同様の方法を用いて、もう一つ別の(比較的近い)過去世の名色(結生から死亡)を観照する;
一つ前の世の結生から死亡までの名色;
今生の結生から死亡までの名色;
一番目の未来世の結生から死亡;
(もし、まだ未来があるのであれば)二番目の未来世の結生から死亡までの名色;
己自身が識別することのできる最も遠い未来世。。
ここまできても、いまだはっきりと理解できない禅修行者の為に、ここでは、観の修習に関して、更に一歩進んだ説明をする:
(たとえば)禅修行者は、五番目の前世の行法(名色と因果)を識別する事ができるならば、彼は、過去世から現在世、未来世まで、順序良く繰り返し何度もそれら(の名色)の三相を観照するべきである。
1、色のみを観ずる。その後
2、名のみを観ずる。その後
3、名色を同時に観ずる、すなわち:
3.1 五つ前の世の結生から死亡までの名色、その後
3.2 四つ前の世の結生から死亡までの名色、その後
3.3 三つ前の世の結生から死亡までの名色、その後
3.4 二つ前の世の結生から死亡までの名色、その後
3.5 一つ前の世の結生から死亡までの名色、その後
3.6 今生の結生から死亡までの名色、その後(もし未来世があるならば)
3.7 一番目の未来世の結生から死亡までの名色、その後(更に遠い未来世があるならば)
3.8 二番目の未来世の結生から死亡までの名色、などなど。
順序良く繰り返し、ある時は内を観じ、ある時は外を感じる。
同様に、五蘊法に基づいて以下を観ずる;
1、色のみを観じて、その後
2、受のみを観じて、その後
3、想のみを観じて、その後
4、行(心所)のみを観じて、その後
5、識のみを観ずる。
ある時は無常を観じ:
ある時は苦を観じ;
ある時は無我を観ずる。
順序良く繰り返し内外を観ずる。
重複して、順序良く繰り返し何度も観照する。
この様に観照する時、以下の様に、五蘊は皆、観照されなければならない:
1、粗い色、受、想、行、識:または
2、微細な色、受、想、行、識:または
3、劣っている色、受、想、行、識:または
4、優れている色、受、想、行、識:または
5、遠い色、受、想、行、識:または
6、近くの色、受、想、行、識。
もし、禅修行者がこの様に観照することができるならば、彼はすなわち、已に過去、現在、未来、内、外、粗い、微細な、劣っている、優れている、遠いと近いの 11個の形式で存在する所の、色、受、想、行、識の五蘊を観照する事ができたのだと言える。
《無我相こう》の観法は:
’Tasmātiha、bhikkhave、yaṁ kiñci rūpaṁ
atītānāgatāpaccuppannaṁ ・・・(Saṁyutta) ’
Netaṁ mama、nesohamasmi、na meso
attāti samanupassāmīti・・・(majjhima aṭṭhakathā)
「比丘たちよ。
五蘊は無常、苦、無我であるが故に、この教法において、11種類の形式において存在する色法を以下の様に観ずる、すなわち:
1、過去色(atīta);
2、未来色(anāgata);
3、現在色(paccuppanna);
4、内色(ajjhatta);
5、外色(bahiddha);
6、粗い色(olārika);
7、微細色(sukhuma);
8、劣った色(hīna);
9、優れた色(paṇīta);
10、遠い色(dūre);
11、近い色(santika)は:
ⅰ.「この色は、私の色ではない」(netaṁ mama)、すなわち苦である;
ⅱ.「この色は私ではない」(nesohamasmi)、すなわち無常。
ⅲ.「この色は己自身ではない」(ṇa meso atta)、すなわち無我。
「観智の光によって、名色の密集を看破して、それらを如実知見に観する」
上と同様の方法によって、四名蘊、すなわち、受、想、行、色を観ずる。
(13-5につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijubunko.sakura.ne.jp/index.html
<本雅難陀尊者(Ven. U Puññānanda)著 『禅修指南』Meditation Guide 第二版 中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>