Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

翻訳『禅修指南』13-5(418/520)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

《粗い・微細/劣・優/遠・近》

この様に観照する時、もし、禅修行者が希望するならば、名色を粗い、微細などとして、これを観ずることもできる。

(一)五浄色と七境色(合計12色)は、智によって、識別され易い為、粗い色、と呼ばれる。

(二)その他の16色は、智でもって識別するのは容易ではない為、微細色と呼ばれる。

(三)諸々の名法の中で、不善の受、想、行、識は智によって、識別され易い為、粗いと呼ばれる。

(四)無記(=果報+唯作)の受・想・行・識と、善なる受・想・行・識、たとえば、五門転向、五識、受領、推度、確定、彼所縁、意門転向、彼所縁、結生、有分、死亡、唯作速行等は、微細であって、識別しにくい為、微細と呼ばれる。

(五)不善果に属する色は劣(=劣っている、以下同様)である。

(六)善果に属する色は勝(=優れている、以下同様)である。

(七)粗い名は劣。

(八)微細な名は勝。

(九)微細色は、智によって識別されることが容易でない為、智から遠く離れており、故に、それらは遠い(+と呼ばれる)。

(十)粗い色は、智によって、識別されることが容易である為、智に近く、故に、近い(+と呼ばれる)。

(11)不善の受・想・行・識は、名を無記とする果報と唯作の受・想・行・識からは遠く、また善受・想・行・識からも遠い為、それらは遠い(+と呼ばれる)

(12)不善の受・想・行・識は、不善の受・想・行・識に非常に近い為に、それらは近い(+と呼ばれる)。善と無記の受・想・行・識は、善と無記の受・想・行・識に非常に近いので、これらは近い(+と呼ばれる)。

それらの法を分別する法は、《清浄道論》第14章などで、見ることができる。

もし、禅修行者が名色法と五蘊法によって、過去から現在、未来へと、徹底的に、三時の内と外を観照することができるならば(+修習のおいて、遺漏がなく完璧である):

1、六処門と42身分の中の色法

2、善と不善速行心路過程の名法、及び離心路過程名法、すなわち、結生、有分と死亡、それらは粗い、微細、劣る、優れる、遠い、近い名色が皆含まれていて、遺漏のないものである。

故に、禅修行者は、名色法を上に述べた如くに運用して、観照する(+のがよい):

1、色だけ、その後に

2、名だけ、その後に

3、名色の二者。

《法句經註》の中において、ある一対の(+夫婦の)施主が、名色を二組に分けた後、名色法によって行法を観照し、アナーガミを証悟したという記載がある。

こうしたことから、もし、禅修行者が個別に内外の三時の粗い、微細、劣、勝(=優秀)、近い名色を観照する事ができたならば、尚良好である。

《不浄観》

仏陀は《増支部・山悦經》(Aṅguttara Nikāya Girimānanda Sutta)の中において、不浄想業処(asubha saññā kammaṭṭhāna)について、言説している。これは、有情の有識不浄(saviññāṇaka asubha)、すなわち、不浄観の事である。

仏陀は《メギヤ經》の中において、以下の様に言う:

Asubhā bhāvetabbā rāgassa pahānāya

ーー不浄観を修習して、貪欲(rāga)を取り除くべきである。

《經集・勝利經》(Sutta Nipāta、Vihaya Sutta)の中において、有情に対する、不浄観を教えている。(+それらは)すなわち、有識不浄であり;(+もう一つは)死体への不浄観、すなわち、無識不浄観(aviññāṇaka asubha)である。不浄観は苦随念の一部分に属する。

有識不浄観

有情の32身分の嫌悪想を作意する不浄観は、二種類に分類することができる。

すなわち、嫌悪作意(paṭikūla-namasikāra)によって、ジャーナを証得する法と、身体の不浄過患を知見する過患随観法(ādīnavānupassanā)である。

もし、内部のすべての32、またはいくつか、または一個の身分を作意する所の、嫌悪想(+を修習するの)であれば、禅修行者は、初禅を証得することができる;もし、同様の方法でもって、外部の身分を作意するのであれば、彼はまた、近行定を証得することができる。

これらは、以前にも説明した。

ここでは、32身分の過患随観法について説明する。

32身分の嫌悪相を目標として取り、「不浄、不浄」と観じて、智でもって、明晰に不浄相を知見する。

順序良く繰り返し内を観じ、外を観じる。

徐々に外部の範囲を広げていく。

この時、已に、究極色法と究極名法を知見する観智に善く慣れている為、内部と外部を交代に、32身分の不浄の逆相を観照したなら、非常に速くに、32身分の消失を見、ただ色聚だけを見ることになる。

これは、観智がすでに、究極諦(paramattha sacca)に対して、良好に育成されたのが原因である。内外の32身分の不浄を観照する時、もし、禅修行者が色聚を簡単に見ることができないのならば、彼は、個別に、または全体的に、身分の四界を識別する様にする。この様にすれば、彼は非常に容易に色聚を見ることができる。色聚が見えたならば、究極智を証得するまで、それらを分別し、次に、順序良く繰り返し、それらの三相を観照する。交互に、内部と外部を観ずる。

そして、禅修行者が、不浄観に満足を覚えた時に初めて、身分の四界を観ずること、及び色聚の中の究極法を観照する事に(+修習内容を)転換する。

虫の充満する身体

《泡沫比喩經》(Pheṇapiṇḍūpama Sutta)及びその註釈において、もう一つ別の有情の有識不浄観に言及している部分がある:

この身体には虫が充満していて、非常に多くの虫が、この身体の中で、交配し、繁殖し、大便し、小便し、病気しており、この身体はまた、彼らの「墓場」でもある。ここでは、不浄が充満している身体と嫌悪相を目標として、それを「不浄、不浄」と、順序良く繰り返し、内観と外観をする。(《相応部註》)。

この様に多数回観照したならば、已に究極諦に関して、良好な観智の力量を育成しているが故に、禅修行者は久しからずして、色聚を見ることができる様になる。

色聚から究極色までを識別した後、これらの究極色の三相を、再度、観照する。

もし、禅修行者が容易に色聚を見ることができないならば、彼は、不浄観の修習に満足を覚え(+る程実践し)た後、諸々の虫または虫が充満する身体の四界を識別する。

この時、(+禅修行者は)非常に速く、色聚を見ることができる。

というのも、その智は、已に、究極諦に対して、良好な育成が出来ているが故に。

色聚の中の究極色を識別した後、次にそれらの三相を観照する。

内と外の二者を観ずる。

究極色の不浄相

究極色にも不浄相が存在する、すなわち:

1、匂い(duggandha);

2、不浄(asuci)または嫌悪すべきもの;

3、疾病(byādhi);

4、老(jarā);

5、死(maraṇa)、すなわち、壊滅の時。(《相応部註》)。

観智でもって、これらの不浄相を識別した後、内外を順序良く繰り返し交代してそれらを「不浄、不浄」として観ずる。

この様にして、有識不浄に関して、不浄相を三種類に分類した後、以下の様に観ずる:

1、32 身分の不浄;

2、身体に充満する虫の不浄;

3、究極色の不浄。

《無識不浄観》(死体の不浄を観ずる)

Puna caparaṁ、bhikkhave、bhikkhu seyyathāpi

paseyya sarīraṁ sivathikāya chaḍḍitaṁ・・・

(Mahāsatipaṭṭhāna Sutta)

ーー次に、びくたちよ。

ある比丘は、死んで一日経った死体、二日経った死体、三日経った死体を見た。その死体は膨張し、変色し、膿液で満たされ、お墓に捨てられたものである。

この死体を見て、彼は以下の様に己自身を観照した:「私の身体もまた、この様な相がある、この相は、必ずや発生し、それは(=彼は)この相から逃げる事が出来ない。」

(《大念処經》)。

Dīghabhāṇakamahāsīvatthero pana 

’navasivathikā ādīnavānupassanāvasena vuttā'ti āha.

ーー阿羅漢長部頌者大吉祥尊者(Mahāsīva)は、仏陀の教えた九墳墓不浄観(navasīvathikā asubha)は過患随観智である、という。  

 もし、上に述べたパーリ経典と註釈に基づいて、無識不浄観を修習したいのであれば、禅修行者は必ずや、一個の死体を選んで観照しなければならない。

止禅の段階で、不浄観を修習するのは、初禅を証得するためであるが、その場合、男性の禅修行者は、男性の死体を観想しなければならず;

女性の禅修行者は女性の死体を観想しなければならない。

これは、禅修行者は外部の死体に専注する必要があり、また近行定において、貪欲(rāga)が、生起して、禅修(定力)に干渉する可能性があるからであり、同性の死体を観想する必要があるのである。

過患随観の修習における、観禅の段階(=己自身と他人の身体の過患)において、内外の過患を、順序良く繰り返し観照する法では、禅修行者は性別に関係なく、観照しやすい死体を選ぶことができる。

たとえば、《經集・勝利經》の中において、比丘、比丘尼、男性居士、女性居士が指示を受けて、祥瑞(Sirimā)なる死体を目標にして、観禅に属する不浄観を修習したと、言及されている。

止禅の段階において、禅修行者はただ一個の外部に存在する死体に専注して、ジャーナの証得するものであるが、観禅の段階においては、禅修行者は内外を交代して、過患を観照するものである。

禅修の方法

禅修行者が徹底的に、順序良く繰り返し何度も内、外、過去、現在と未来の名色(五蘊)の三相を観照する時、その観智によって、極めて明るい光が生起する;

または、以前にすでに修習した事のある第四禅に進入する事もできる。

このジャーナに相応する智の為に、極めて明るい光が生起する。

順序よく定力を育成するか、または順序よく観禅の修習をした後、彼は、すでに死体を目標として修習する無識不浄観を実践するに、相応しいものになっている。

もし、その光がいまだ暗くて無力である場合、再度、順序良く定力を育成しなければならない。

光が、定に相応する智によって、極めて明るく光る時、その時には、無識不浄観を修習することができる。

光が止智または観智によって極めて明るく光る時、禅修行者は光を用いて、己自身が見た事のある死体、または覚えている死体を禅修の目標として、それを照見することができる。

智の光で照見するということは、ちょうど小型のライトで照らす様なものである。

当該の死体の不浄は、観智に置いて、明晰に顕現しなければならない。

当該の死体がすでに腐乱し、悪臭のあるものであれば尚良い。

それの不浄に専注して「不浄、不浄」と観ずる。

修習する時、心をして平静にその不浄を観じる時、禅修行者は観智でもって、己自身の不浄を、あの外部にある、腐乱した死体と同じであるが如くに、観照する事にチャンレンジしてみる。

己自身の腐乱した躯体の不浄を見た時、それを「不浄、不浄」と観ずる。

もし、禅修行者が智でもって、己自身の不浄を照見できない時、彼は、再度、外部の不浄を観じ、その後にあなたに内部を観ずる。

もし、彼がこの様に多数回修習するならば、彼は、内部の不浄を見ることができる。

もし、いまだ成功しないならば、智でもって、現在から(+始めて)未来までの己自身を識別する。この様にすれば、己自身が死体に変化している不浄の様を、簡単に見ることができる。

現在因と未来果の因果関係を識別できる禅修行者にとって、この観法は、非常に容易なものである。

もし、智でもって己自身の不浄を観照する事が出来るならば、彼は内と外とを交代しながら、それらを「不浄、不浄」として観照することができる。

この様に修習する時、己自身が貪染している所の、他人を観照することもできる。

徐々に範囲を拡大していき、内患と外観を交代して修習する。

もし、彼が、この様に、内と外とで、多数回不浄を観照するならば、その前の観の修習の力量によって、また、究極定の修習の経験を積んでいるが故に、彼は内外の死体の色聚見ることができるか、または死体がゆっくりと一塊の白骨になり、その後に骨灰になるのを見ることができる。

また、智でもって、徐々に死体の未来を観ずるならば、当該の死体がゆっくりと一塊の白骨になるのを見ることができるし、その後に骨灰になるのを見ることもできる。

死体の、一つひとつの腐乱の段階を「不浄、不浄」として観ずる。

もし、簡単に色聚を見ることができるならば、究極色(時に時節生色)を識別した後、それらの三相を観照する。

もし、簡単に色聚を見ることができないのであれば、内外の死体の四界を識別する。この様にすれば、これらの死体の色聚を見ることができる。

もし、これらの色聚を識別する事が出来るならば、彼はまた、色聚の中の火界が持続的に不断に造り出す所の時節生食素八法聚をみることもできる。

これらの色聚を識別した後、次にそれらの三相を観照する。

修習している不浄観に満足した後にのみ、不浄観から観禅に転換する。

特別の状況

もし、観じられている死体の中に蛆虫がいた場合、禅修行者が、その死体を観ずる時、時節生食素八法聚が見る以外に、その他の色聚も見る事がある、たとえば、明浄色聚とその他の非明浄色聚である。

その原因は、彼は、その死体に依存して生きている所の蛆(死体の色聚と混ざり合っている)の色聚が見えたのであり、その場合、死体に浄色と四等起色が存在する訳ではない。

内外の死体の色聚を識別した後、次に、その究極色の三相を観照する。

《縁起支》

《清浄道論》第20章において、縁起支は、観智の目標の内に列記されているが、この説は、《無碍解道》に基づくものである。

故に、禅修行者は、縁起支も観照して、次に、随順縁起法によって、因果を識別しなければならない。すなわち、「無明が生起するが故に、行が生起する」などである。

この段階においては、諸々の縁起支に対して、観の修習を実践するべきである。

諸々の過去世と未来世に対して、以下の事を理解する事:

もし、今世を縁起輪転の中間に置いたならば:

1、無明と行は前世に属する;

2、識、名色、六処、触、受、愛、取、有は、今世に属する;

3、生と老死は、未来世に属する。

もし、一番目の前世を縁起輪転の中間に置いたならば:

1、無明と行は、二番目の前世に属する;

2、識、名色、六処、触、受、愛、取、有は、一番目の前世に属する;

3、生と老死は、今世に属する。

もし、一番目の未来世を縁起輪転の中間に置いたならば:

1、無明と行は今世に属する;

2、識、名色、六処、触、受、愛、取、有は、一番目の未来世に属する;

3、生と老死は、二番目の未来世に属する、など等。

これは不断に連貫する、三世因果の観法である。

幾つかの観法の例

(一)無明が生起するが故に、行が生起する:

無明(生・滅)無常;行(生・滅)無常。

己自身の名色相続流の中の、すでに生起した、今まさに生起しつつある、これから生起する無明と行の無常を観照する。

通常、無明は、貪見グループの意門心路過程に属し、行は状況によって、善または不善速行意門心路過程に属する。

たとえば、禅修行者のこの一生を引き起こす行は、かならず、過去世に造(ナ)した修行が原因であるに違いない。

諸々の世において、すでに生じた、今まさに生じつつある、これから生じようとしている無明と行の無常を観照する。

同様の方法でもって、苦相と無我相を観ずる。

(二)行が生起するが故に、結生識が生起する;

行(生・滅)無常;結生識(生・滅)無常。

一切のその他の果報識を無常として観照する。すなわち、すべての六門心路過程、有分識と死亡識を観照する。

縁起第一法の中において、すでに識別した因果に基づいて、その他の縁起支を、生から老死までを、観照する。順序良く繰り返し因果の三相を観照する。

經の教法によると、因果関係を識別している時、果報輪転の法に属する所の識、名色、六処、触と受をのみ、識別すればよい、というのも確かな事である。(《大疏鈔》)。

観禅の修習をする時、それらは別離(avinābhāva、不別離性)できない為、故に、それらを五門転向、確定、速行、意門転向と速行と共に、一纏めにして、観照しても問題はない(いかなる究極界も遺漏しない為に)。

己自身の能力に合わせて、最も遠い過去世から、最後の一個の未来世までを観照する。順序良く繰り返し、内を観じ、外を観じる。

外に関しては、全体として観ずるものであって、人とか有情とか分別してはならない。

(13-6につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijubunko.sakura.ne.jp/index.html

<本雅難陀尊者(Ven. U Puññānanda)著 『禅修指南』Meditation Guide 第二版  中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>