<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
無我相は五
Anattā ca paraṁ rittaṁ、tucchaṁ suññanti
tālīsaṁ. Vedanādayo khandhāpi、tatheva pañcakāpivā.
(一)無我(anattato)
Sāmi-nivāsi-kārakavedakādiṭṭhāyakavirahitāya suññato.
Sayañca assāmikabhāvāditāya anattato.
【五蘊には主、住、造作、受と決意諸性(sāmi、nivāsi、kāraka、vedaka、adiṭṭhāyaka)がないが故に、以下のものがない:
1、主我(sāmi atta):諸蘊を擁する我;
2、住我(nivāsi atta):諸蘊の交換を望まない。すなわち、一世毎に同じ身体に住みたいと思う我;
3、造作我(kāraka atta):一切の仕事と作用を実行する我;
4、受我(vedaka atta):目標を感受する我;
5、決意我(adhiṭṭhāyaka atta):一切の仕事と作用に、判断を下す我。】
故に、無我は非主、非住、非造作、非受と非決意であると言える。
(二)空(suññato)
【諸蘊は、主我、住我、造作我、受我と決意我が無いが故に】空である。
(三)敵(parato)
Avasatāya avidheyyatāya ca parato.(Vism)。
Avasatāyātai avasavatanato.
Yathā parosatanto puriso parassa vasaṁ・・・(Mahāṭīkā)。
【諸蘊は、縁起の段階で言及した所の、諸因によって生起する。まさに、主権を持つ人が、他人の希望に従う必要がないのと同じ様に、諸蘊は人の願望と関係がない。例えば、苦楽が生起しない様に、楽受だけ生起せよと思っても、美しくありたいと思っても(+それは不可能な)如くに。
それらは、人の願望に従わないし、
「老いたくない;
病気したくない;
死にたくない」(+という願いも)受け付けない)。】
故に、それらは、敵である=外から来る親しくない者。
(四)無(rittato)
Yathā parikappitehi dhuvasubhasukhāttabhāvehi rittatāya
rittato.(Vism)。
【この教えの外において、邪見を執取する者は、五蘊(名色)は常、浄、楽、我(dhuva、subha、sukha、atta)であると思うのである。
しかしながら、実際は、それらは無常・無浄・無楽・無我なのである。】
故に、それらは無であり、すなわち、常、浄、楽、我ではないのである。
(五)虚(tuccato)
Rittatāyeva tucchato appakattā va、appakampi hi loke
tucchanti vuccatai.(Vism)。
【五蘊(名色)が常、浄、楽、我ではないが故に、それらは虚である。
または、五蘊(名色)の中には、常、浄、楽、我がないとは言うものの、おれらは究極界の中に存在しないと言う訳でもなく、実際は、究極の中にそれらは存在する。それらは、生起、住、壊滅の三時の中に存在する。
故に究極名色法はただ、非常に短い時間の中において存在しているのであって、故に、それらは「虚」(tuccha)なのである。
「虚」の、もう一つ別の意味は、少ない、である。】故に、五蘊(名色)は虚である。
《無常、苦、無我の基因》
Rupaṁ bhikkhave anicchaṁ、yopi hetu yopi paccayo
rūpassa uppādāya、sopi anicco、・・・(Saṁyutta Nīkāya、Sahetu Anicca Sutta.《相応部・有因無常經》
ーー「比丘たちよ。色は無常である。直接引き起こす因(hetu、janaka)を有し、(+それは)また、それを支援する縁(助縁、paccaya、upatthambhaka)でもあり、これらの因と縁は、無常である。
比丘たちよ。無常の因によって引き起される色は、なぜにして、常で有り得るか?」
仏陀のこの經の教えによると、五蘊を引き起す所の無明、愛、取、行及び業の諸々の因自体は、無常・苦・無我なるものであって、故に、名色または五蘊の諸々の果もまた、無常・苦・無我なのである。
禅修行者は智でもって観照して、「諸々の因自体が無常・苦・無我であり、故に、諸々の果もまた無常・苦・無我なのである」事を知見しなければならない。
理法観の200種類の思惟
色蘊または一つひとつの蘊の中において、十個の無常随観、25 個の苦随観、五個の無我随観、合計40種類の思惟法が、存在している。
一つひとつの蘊には、それぞれ40種類の思惟法がある為、五蘊の理法観は合計200種類の思惟法がある事になる。
先に、名業処表に基づいて、一つひとつの種類毎の、心路過程における全体的な系列の五蘊の無常をのみ、観照する。
内と外を交代しながら、すべての六所縁グループを、40種類すべての思惟法の修習が完成するまで、観照する。その意味は、禅修行者は40回修習しなければならない、という事である。
同様に、五蘊法を(見えるものから始めて)最も遠い過去世から、最後の一個の未来世まで、40種類のすべての随観を修習する。この様にするならば、もう一つ別に40回修習する訳である。
勿論、更に多数回、修習するならもっと良い。ここにおいても、内観も外観も修習しなければならない。
もし希望するならば、禅修行者は名色法を採用して、内外を交代しながら、六種類すべての心路過程について、40種類の随観を修習する。
その後に、名色法を採用して、最も遠い過去世から、最後の一個の未来世まで、40種類の随観を修習する。この様に、内外を、順序良く繰り返し何度も観照する。
《慧の成就》
Evaṁ kālena rūpaṁ kālena arūpaṁ
sammasitvāpi tilakkhaṇaṁ aropetvā ・・・
(Vism)。
Anukkamenāti udayabbayañāṇadhigamānukkamena・・・
(Mahāṭīkā)。
もし、禅修行者が名色法と五蘊法を(+用いて修習でき)その上、12処法と18界法でもって、観禅の修習をする事が出来るならば、彼は以下の様に実践する:
1、ある時は、色のみを観ずる;
2、ある時は、名のみを観ずる;
3、ある時は、名色の二者を同時に観ずる;
または
1、ある時は、色のみを観ずる;
2、ある時は、受のみを観ずる;
3、ある時は、想のみを観ずる;
4、ある時は、行のみを観ずる;
5、ある時は、識のみを観ずる;
6、ある時は、内を観ずる;
7、ある時は、外を観ずる;
8、ある時は、内外の過去、現在と未来を観ずる;
9、ある時は、無常相を観ずる;
10、ある時は、苦相を観ずる;
11、ある時は、無我相を観ずる。
そしてまた、観智の順序に従って、観禅の修習が出来るならば、彼は「慧の修」(paññā bhāvanā)の成就、すなわち、阿羅漢果を証悟することができる。
もし、いまだ成就することができないならば、観の修習を順序良く繰り返し何度も実践すること。
もし、それでも成功しないのであれば、彼は七色観法と七非色観法の修習に転じるのがよい。
《七色観法》
’Ādānanikkhepanato、vayovuḍḍhatthagāmito;
・・・’。
(一)取捨色観法(ādānanikkhepa rūpa)
(ここで言う「取」は結生の事で;「捨」は死亡の事である。)
順序良く繰り返し、内外を観照する時、結生から死亡に至る色法の三相を観照する。
(二)年齢によって増長し生滅する色の観法
(vayo vuḍḍhatthaṅgama rūpa)
それぞれの年齢の段階における色法の壊滅を観照する。仮に、禅修行者の寿命を100年とする(もっと長いか、または短い可能性はある)
1、100年を 3齢に分ける。すなわち、初齢は33年、中齢は34年、後齢は33年とする。一つひとつの各齢は、約33年であるとする。
2、100年を10個の段階に分ける。一つひとつの段階は10年である。
3、100年を20個の段階に分ける。一つひとつの段階は5年である。
4、100年を25個の段階に分ける。一つひとつの段階は4年である。
5、100年を33個の段階に分ける。一つひとつの段階は3年である。
6、100年を50個の段階に分ける。一つひとつの段階は2年である。
7、100年を100個の段階に分ける。一つひとつの段階は1年である。
8、100年を300個の段階に分ける。一つひとつの段階は一季(緬甸は一年に、三季を数える)である。
9、100年を600個の段階に分ける。一つひとつの段階は二か月である。
10、100年を2400個の段階に分ける。一つひとつの段階は半月(15日)である。
次に、一日毎の色法を:
1、昼と夜の二段階に分ける。
2、昼間を、朝、日中、午後の三個の段階に分け;夜は初夜、中夜、後夜の三個の段階に分ける。
一つひとつの段階において転起する所の色法の三相を順序良く繰り返し観照する。(仮に聚網を100年とした場合、毎日毎の六段階を観じなければならない。一日観ずれば終わり、という事ではない。)
その後に、六個の部分の中において、転起する色法の三相を観ずる:
1、足を挙げて、足が地面から離れる時に、転起する色法;
2、前に向かおうとして、動かない方の足において転起する色法;
3、動かない足を超えて、前へ進もうとする時に、転起する色法;
4、足を降ろす時に転起する色法;
5、(+足が)地面に着く時に転起する色法;
6、地面を踏みしめた時に転起する色法。
近察(upalakkhaṇa)と顕示(nidassana)の方式(たとえば、「影を見るだけでそれが何かを知る事」)によって、姿勢を観照する事と、行動における色法の三相の指示を理解する事。
100年の内の、毎日発生する所の一切の身体動作を観照する。
(三)食所成色観法
(āhāra maya rūpa)
毎日を二つの部分に分ける。この二時の四相続色(catusanti rūpa、すなわち、業、心、時節、食の四種類の因によって引き起こされる色法)の三相を観照する。すなわち:
1、飢餓(=空腹)の時に転起する四相続色;
2、満腹の後に転起する四相続色。
(四)時節所成色観法
(utu maya rūpa)
以下の、毎日生起する所の色法の三相を観照する:
1、暑い時に転起する四相続色;
2、寒い時に転起する四相続色。
(五)業生色観法
(kammaja rūpa)
一つひとつの処門の色法の生・滅を識別した後、それらの三相(一つの処門を観じ終わった後初めて、もう一つ別の処門の色法を観ずる)を観照する。
1、眼門:目の中に生起する所の54種類の色法;
2、耳門:耳の中に生起する所の54種類の色法;
3、鼻門:鼻の中に生起する所の54種類の色法;
4、舌門:舌に生起する所の54種類の色法;
5、身門:身体に生起する所の54種類の色法;
6、意門:心臓の中に生起する所の54種類の色法。
毎日、一つひとつの処門の中において生起する色法を観照する事。
(六)心等起色観法
(cittasamuṭṭhāna rūpa)
毎日、以下の時刻において生起する所の四相続色を、順序良く繰り返し、観照す:
1、楽しい時に生起する色法(somanassita、喜びの時);
2、嬉しくない時に生起する色法(domanassita、憂の時)。
(七)法性色観法
(dhammatā rūpa)
禅修行者は非有情界、根と無関係(anindriya baddha)なもの、例えば鉄、銅、鉛、金、銀、真珠、宝石、猫目石、ほら貝、水晶、珊瑚、樹木、水、地、森林、山等の時節生食素八法聚と声九法聚を観照しなければならない。
先に、智の光でもって、それらの四界の、色聚が見える様になるまで、識別し、次に、これらの色聚の中の8、または9種類の究極色を識別する。
次に、これらの色法の三相を順序良く繰り返し観照する。
註:一番目の項から六番目の項の色法は、有情界に属する色法である。これに対しては、内と外と共に観照しなければならない;七番目の項、法性色はすなわち、非有情無執取行法であり、これに対しては、外の非有情界のみ、観ずればよい。
(13-8につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijubunko.sakura.ne.jp/index.html
<本雅難陀尊者(Ven. U Puññānanda)著 『禅修指南』Meditation Guide 第二版 中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>