<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
注意しなければならないのは、心をば、智慧の修行の道の上で、狂ったように走らせて、休ませないなどという事がないようにするべきである。
過度の観察は、一種の集(samudaya)であって、心の中に浸透し、それが、行(sankhāra)に落ち込むことによって、一種の呪詛になる事がある。
智慧は、思想(=思考)と分析の機能を利用して、心を観察するが、これらの機能自体は、ただ只管前進するのみで、調節する事を知らない。
故に、常に、コントロール(制御)を忘れずに、内在に関する仕事と休息の間において、適切なバランスを保つ必要がある。
この段階の修行においては、智慧は全力で赴く為、休息するべき時には、同様のエネルギーの度合いでもって、サマーディに専注しなければならない。
これが、道、果と涅槃における中道である。
このレベルの修行では、心及びそれと名蘊(nāma khandha)との関係が、観察の焦点となる。
心は、我々の存在の核心であり、知る、という根本的特性であり、それは純粋で、浄化された簡単な覚知によって構成されているーー心はただ、知る、のである。
善悪の覚知、及びそれに伴う判断は、すべて心の活動に当たる。
ある時においては、それらの活動は、念住の様を顕現し、ある時には、智慧であったりする。
しかし、真正なる心は、完全にいかなる活動も顕現する事はないし、いかなる状態も顕現しない。それはただひとつ、知る、という境地に過ぎないのである。
心中に生起する活動、たとえば、良し悪しの覚知、または楽しさと苦痛、または称賛と誹謗は、すべて心中から流出した、意識の状態である。
それらは、心の活動と状態を代表しているが、それらの本質は、不断に生・滅しており、この種の意識・覚知は、結局は不安定であり、頼ることのできないものである。
この観点から言えば、想、行と識は、すべて心の状態であると言える。
これらの状態は、我々が、名蘊ーー心理現象ーーと呼ぶような、波動を齎す。
受、想、行と識は、お互いに影響し合いながら、相と影像・イメージをば、心の中から生起せしめるのだが、心は、それらを知る所の、覚知なのである。
雑染の影響、たとえば、欲貪は、この覚知が知っている所の内容を操縦し、汚染する。
心が欲貪の統治の下にある時、この内在における影像・イメージは、真であり、かつ実質的に存在しているのだと信じてしまうが故に、その時には、貪と瞋が、生じてしまう。
この内在化された相は、それらに認知された所の本質ーー好いまたは悪い、喜ばしいまたは嫌悪ーーに従って、受け入れられたり、追い払われたりする。
心の観点は、結果的に、この二つの極に分裂させられ、それは、世界の二元性と不確定性を認める(+罠に)はめ込まれてしまうのである。
心の能知は、生起したり滅したりはしない。
しかし、それはあれら生起と滅し去る現象ーー例えば煩悩と蘊ーーの特徴を模倣する。
智慧が最終的に、騙しの局面を見透かしたならば、心は、これらの現象に絡むのをやめる・・・それらがいまだ、蘊の範囲内で、生起と消滅を継続していたとしても。
心はこのようにして、これらの現象において空(クウ)となる。
我々が出生してからこの方、その一瞬一瞬において、五蘊は不断に生起し、また滅しているが、それらは、本質的になんらの実質もなく、その中から何らかの、本質を見つけ出すこともできない。
心は、これらの現象に対して、それらにおいて、自我という一つの外観を定義して、心はそれらに自我的な実質があるとか、己によって所有されているとかと思い込んで、それらに執着してしまう。
この誤った知見は、一つの自我(=エゴ)を作りだし、それ故、泰山より重い深重な負担・負荷を齎す事になる。
自我の幻覚が造り出した邪見による、唯一の報酬は、苦である。
心はすでに、これらのものごと(+の真相)を観察することに、完成をみた。
精鋭な直接的な智慧でもって、それらを明晰に見通し、身体は、ただの自然現象である事が、すでに、明確に、理解された。
身体に関する真実は、身体内部に存在する物質的特性の内に限られる。
(+身体の)内部には自我はなく、故に(+身体は)二度と再び、喜ばしい対象とはならない。
身体の感受ーー身体内部に発生する所の疼痛、快適さと中性的な感受ーーは明確であり、真実であるが、しかし、それらは、特定の範囲内のおける真実であるにすぎない為、同じく捨棄される。
しかし、智慧はいまだ、純粋に、心の中から生起する所の、微細な感受を見通す能力を持っていないが故に、心理的な感受と感情的な感受ーー心内部にのみ発生する苦、楽と捨受ーーは、不断に心の因と縁を吸収し続ける。
目前において、いまだそれらの真相を理解する事はできていないが、これらの微細な感受は、不断に覚醒の作用を生起させており、心をして、更に一歩進んで、それらを観察させんとするものである。
(1-41につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<『阿羅漢向・阿羅漢果』 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>