<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
”この光明空と、涅槃の清浄空を、同じものだと、誤解してはならない。
両者は、天と地ほどに、異なっている。
光明心とは、不断に輪廻する元来の心を含有しており、それは、純一で清浄に満ちているという事はなく、生死輪廻から解脱している所の心性ではない。
光明心は、非常に繊細で、自然な状態にあり、始終如一で、その光明と清らかさと明晰さは、その見かけ上、空(クウ)であると思わせてしまうものである。
これは、名相(=精神、意識の相)を超越する所の本性ではあるものの、しかし、涅槃ではない。
それはすでに、非常に清浄なる核心ではあるが、しかし、人をして魅了せしめる所の、壮観なる能知として顕現する。
”心が最終的に、形相(=姿かたち)と概念に対するすべての執着を放下する時、能知の核心は、極めて精緻な性質を顕すが、それはすでに、一切を放下しているものであるーー己自身を除いては。
それの真正なる本性は、依然として、根本無明の浸透を受ける。
故に、あなたが、意識していない状況の下で、光明の核心は、微細な形態の自我(=エゴ)に変化して、あなたをして、この微細な快楽感、楽しさの感じと光明をば、無為なる心性であると、信じさせる事になってしまう。
あなたは、これを無明とは意識できないままに、この壮観な心は、円満なる果証ではあるが、次の段階において、あなたはそれを涅槃、清浄心の究極空だと思い込んでしまう。
(5-37につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<原題「美琪喬ーー一位阿羅漢尼修道証果之道」Dhammavamsa Publication
中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>