Sayalay's Dhamma book

中国語で書かれた仏教書(主にテラワーダ、南伝仏教系)を日本語に翻訳して公開。たまには<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。                    2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得る。 2018年8月10日の翻訳をもって翻訳ワークは終了しました。                     コメント欄は利用OKですが、リトリートに入っている時は回答しません。。

★飛び入り翻訳~《基礎発趣論(業縁と果報縁)》4-3

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

来世の幸福

皆さんに覚えておいて欲しい事:

来世の幸福は、必ずや、今生の努力によって、功徳業を累積する事でしか得る事ができない。

もし、今生において、しっかりと、清浄なる功徳業を累積したならば、我々は安心することができる・・・来世において幸福ーー善趣を得る事ができる、と。

業相の現起(現象)の状況

人が死ぬ時、今生の各種の行為を思い出す。

すなわちそれは、今生に造(ナ)した業の状況であるが、それを業相(kammanimitta)と言う。

たとえば:

布施・供養が好きで、過去に道場を建造して、三宝に布施した人事のある人は、臨終の時に、己の造(ナ)した功徳の行為を思い出すが、その事によって、善の思心所が、不断に生起する。

この時の心情は、布施を修していた当時と全く同様に、喜悦に満ちたものであり、これが彼の、業相である。

もし、過去に造(ナ)したのが殺業であれば、臨終の時に、殺生の業の状況が現前する。

これは業相であり、業相は、業ではない。

業相とは、造(ナ)された業によって、現起(現象)する境のことを、言うのである。

ある種の人々は、臨終の時、種々の、非功徳の業相が、出現する。

ある時は、神智が朦朧として、失神してしまう事もある。その時に、他人が色々とでたらめな話、悲しい話をすると、また目が覚める。

目が覚めると、今生における、己の良くない行為の状況を思い出して、懼れ、恐怖と悲哀を感じるのである。

ある種の人々は、一生善を行い、臨死の時の昏迷状況の下で、種々の功徳の業相が現前し、目が覚めた時は、比類のない喜びを感じる。

ある種の人々は、はっきりと己の来世、どこに行くかを観ることができるーーこれが趣相である。

ちょうど須那尊者の父親のように、須那尊者が彼のために仏塔を建立してあげた事が原因で、彼が犬にかまれ、食べられてしまう趣相があったとしても、その趣相が、天女を観る趣相に変り、地獄相から天堂(=天界)相に転じた、あの物語のように。

こうしたことから、趣相(gatinimitta)は、来世に生まれる場所と関連する境である、という事が分かる。

もし、来世、もう一度、人趣に来るのであれば、臨終の時、あなたは、赤い羊水に包まれている様子を見るであろう。

たとえあなたが、羊水が何であるか知らず、また羊水について考えた事がなくても、あなたはこのような情景をみる。これが趣相である。

 無明、愛、行

趣相が現起(現象)する時、我々の身・心の内に、無明と愛があるが故に、「無明」(avijjā)が、この趣の「有」(bhava)の過失(=欠点)を覆い隠し、「愛」(tanhā)が、我々をして、趣有(gatibhava)の方向へと、向かわせる。

「福行」と「非福行」の思心所は、行(sankhāra)の方式で存在し、我々をして、もう一つ別の一期の、新しい生命に向かわせる。

たとえ臨死業が現起(現象)した所の、次の一期の生命が卑賤な境であるとしても、無明が覆い隠す事が原因で、我々には、一切の過失が見えない。

母胎の羊水を見ると、我々は厭離しないだけでなく、母胎に対して「愛結」を生じさせてしまうーーすなわち、生命を求めてしまうのである(bhavanikanti)。

今や、三悪堕に落ちそうな人であっても、無明が覆い隠す事が原因で、彼は地獄に対して、まったく恐怖を感じる事が無い。

たとえ彼が、それは地獄であると知ったとしても、彼はそれを愛し、それに執着する。

というのも、彼の今生の身殻は、もはや使えなくなっており、その「何一つ持たない状況」に、彼はとても耐え難く、適応できない為、故に、三悪趣であろうとも、愛してやまず、手放す事がでない。

これが「無明によって覆い隠され、愛結に結縛される」である。

臨終の時は、ちょうど水に溺れるが如くであって、溺水しているその最中、身体にどのようなよい状態、または悪い状態が出ていようとも、藁を見ればそれに掴まってしまうのと同じであって、それが人食いサメであっても、同じように捉まえてしまうのである。

というのも、彼にとって、溺水しているのは疑いもない事実で、何かに掴まれば、多少とも生存の可能性があるからである。

臨終の時、よい境、悪い境に関わらず、彼は良しあしの区別なく、境に従って進む。それが悪趣の境であると分かっていても、やはりそれを愛し、それに執着するのである。

衆生が、臨終のときの所縁境に執着する時、無明のよって覆い隠される。

結果、愛結に繋がれて、もう一つ別の一期の、新しい生命に向かう。

過去の福行、非福行等の業力は、果報が熟するのを促すような態勢に入る。

臨終の時、我々の心は、心路の遍歴過程の順序に従って生起するが、この時の心所依所(hadayavattu)(注1)の力は非常に弱く、故に、死心が生起する前、速行心は5回しか活動せず、その次は、彼所縁(tadā)になる。

その後に来るのは死心(suti)で、一生はこれにて終結する。

死心は、この一生における最後の一個の心で、死心の後では、いわゆる業力の行が、再び結生するよう促し、そのため、また別の一期の生命が始まるのである。

(注1)心所依処:心臓の下端にあり、その特徴は、意界と意識界に依存場所または支えを提供する事。

作用は、二界の依処(=依存場所)となる事。

現起(現象)は、この二界を支える事。

近因は、同一の一粒の色聚の中の業生四大種である。

(4-4につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<《基礎発趣論(業縁と果報縁)》 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>