<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
究極的な危険が、その時、そこにあった。
究極的な危険な<点>とは、世間的実体の全体を創造する所の、光明の核心であった。
私は、永遠に忘れない。
あれは二月のことで、アチャン・マンの遺体が、荼毘に付されたばかりの頃であった。
私は山に入ったが、この部分が瓶首となって、(+修行が)行き詰まってしまったのである。
それは徹底的に、私を惑わした。
私は心内に浮かんだ、あの法語から、何かを得ることもなかった。
それは、強大な恩恵を施してくれることもなかったし、却って、私を苛む巨大な虚妄の一部分となった。
私は混乱した:
”この点は何だ?”
それは当然の如くに、あの光明の点であったのではあるが、しかし、私はこれまで光明の中心が、高度の危険性を持つものだ、という事を予期した事がなかった為に、私は久しく、それをば、究極の功徳だ、と思いなしていたのである!
煩悩は、このようにして、私をば、騙したのである。
私は、それが極めて危険であるという、警告は受けていたのではあるが、しかし、それは、なお、私をば呪詛して、私を惑乱し、私をして、あれは究極の功徳であると、信じせしめたのである。
私は、この矛盾が、如何に私を苦しめたかを、決して忘れることはない。
その後、私は山寺を下りて、スリ・チェンマイ県の瓢村(Ban Pheu)地区に行き、森林の奥にある Pha Dak という洞窟に住んだ。
ここには三か月程いたが、その後、心内に、いまだ解決できない所の、重苦しい迷いを抱いたまま、元の山寺に戻った。
最後に、この山の背に住んでいる時に、問題はようやく、解決したのである。
(2-4につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<『阿羅漢向・阿羅漢果』 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>