Sayalay's Dhamma book

テーラワーダ系仏教書の翻訳は2019年夏を持ちまして終了致しました。これまでに翻訳しました内、23冊は<菩提樹文庫>にてPDF版を読むことが出来ます。今後、翻訳文を掲載する予定はありませんが、偶には<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。学問的な議論ではなく、ただの雑談、独り言です、お楽しみ頂ければ幸いです。2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得ました。 初心者の疑問にはコメント欄にて対応します。

《Vipassanāハンドブック》5-7(F)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

今、我々は、二種類の趣について、検討したい。

一人の人間が、木から落ちて来る時、それは椰子の実が落ちてくる様に似ている。

というのも、彼は、空中を飛翔する事の出来る翼を持っていないが故に。

もっとはっきり言うならば、人、天人と梵天は、同じく凡夫であり、彼らが邪見で覆われていて、また、彼をば、天上に連れて行く所の依止処・・・八正道の翼がないのならば、彼らは、彼らの肉体が崩壊した時、新しい生命に転生する;

(+その時)彼らは、罪悪の淵に堕ちる事もある。

この世界において、人々が高い木に登って、この木を休息処としたいと思いながら、しかし、彼らが掴んだ枝が折れる時、彼らは地面に落ちてしまう。

彼らは全身が痛み、死亡する。というのも、彼らには樹木以外に休息処がなく、また、空中を飛翔できる翼を持たないが為に。

天人、梵天もまた同じであって、彼らの中に、いまだ見顛倒があれば、ひとたび彼らの身体が崩壊したならば、彼らは凡夫趣に堕ちる。

というのも、彼れらの依止処は、唯一、彼らの身体のみであるが故に;

彼らは、涅槃を彼らの休息処とする事がなく、また、八正道を彼らの強大な翼として、己自身を支える事がない。

小鳥たち、もし彼らの留まっている樹木の枝が折れたとしても、彼らは決して落ちてしまうなどという事はなく、軽々と空中に飛び立ち、もう一つ別の木に止まる。

木の枝は、彼らの永遠の住処ではなく、それは一時的なものである。

彼らは完全に、翼と空気に頼っている。

同様に、人、天人と梵天が、もし、すでに聖者になっていて、邪見がないのであるならば、彼らは己自身の身体を自我(self)と見做さず、また己自身の身体に依存するという事がない。

彼らは永遠に、休息処(涅槃)を擁しているが、その涅槃とは、すべての痛苦・煩悩の完全な止息である。

彼らは、強くて力のある八正道の翼を持ち、それは、彼らをして、比較的良好な生処に連れて行くことができる。

これが二種類の趣の説明であり:

凡夫趣と聖趣の違いである。

(6-1につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。ご協力、よろしくお願いいたします。

<《Vipassanāハンドブック》(原題 Vipassanā Dipanī)

Ledī sayādaw著 中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

は、し、った時、る時、