<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
(六)二種類の諦
Saccā は、諦または真理を指す。
諦は、一種、堅固な信であり、またはある事柄の固有の本質を言う。
諦には二種類ある:
すなわち、
1、俗諦(sammut-saccā):世俗のまたは相対的な真理。
2、真諦(paramattha-saccā):絶対的な真理。
この二者の内、俗諦は世間の道理、真理を言い、一般大衆によって使用される。
たとえば、「自我は存在する」、「活きている魂は存在する」、「人は存在する」、「天人は存在する」、「釈迦族は存在する」、「象は存在する」などなどである。
俗諦は、不真実の反対であり、故にそれを克服(overcome)することができる。
俗諦は、嘘ではなく、また虚構でもなく、人々が「一種の、永遠不変の、永恒の自我、または活きた霊魂は、一時的に生起するのではなく、また、生命と共に消失するものではない」と言う時、それは絶対多数の人々が、習慣的にそのように述べる談話方式であり、彼らには、他人を騙そうとする意図はない。
しかし、真諦から見れば、上記の事柄は顛倒(vippallāsa)と見做される。
それは、無常を常とみる錯誤;
無我を、我とみる錯誤である。
この種の誤った見(=見解)が壊されない限り、如何なる人も、生死輪廻の中から、飛び出すことはできない。
故に、上に述べた、絶対多数の人々の習慣的な談話方式は、みな、俗諦に属する。
たとえば:ある人が「某人は存在している」など等と言う時である。
真諦は、絶対的真理であり、現象界における真実、基本、根本的特質に合致している。
ここにおいて、人は、肯定的な方式でもって真諦を描写することができる。
たとえば:「固体(地)の元素は存在している」、
「拡大(地)の元素は存在している」、
「動くエネルギー(火)の元素は存在している」、
「心智は存在している」、
「意識は存在している」、
「触、受、想は存在している」、
「色蘊は存在している」など等である。
もし、否定的な方式でもって真諦を表現するならば、我々は以下のように言うことが出来る。
「自我(=我)は存在しない」
「霊魂は存在しない」
「永恒なる個体はない」
「永恒なる生命はない」
「象は永遠には存在しえない」
「手は永遠に存在する事ができない」
「足は永遠に存在する事ができない」
「身体の如何なる部位も、永遠には存在できない」
「人と天人は、永遠には存在できない」など等である。
ここで言う所の「自我は存在しない」「霊魂は存在しない」とは、人の一生において、永恒不変なる実体、または霊魂というものはないのであって、それを我と呼ぶ事はできない、という意味である。
「永恒の生命はない」などと言う時、それは物質と精神元素を除いて、真実不変な実体というものは無い、と言う意味である。
これらの元素は、衆人でもないし、衆生でもないし、人類でもないし、天人でもないなど等。
真諦と顛倒は、正反対であるため、それを否定することができる。顛倒を対治する事のできる人間は、生死輪廻の中から抜け出すことができる。
俗諦によると、個人は存在し、生命は存在する。一人の人間または一つの生命は、生死の海洋の中で、浮いたり沈んだり、一つの生命から、もう一つの生命へと、不断に輪廻する。
しかしながら、真諦によれば、個人というものは無く、個体生命の存在も無く、一つの真実の自我(=我)の、その生命が、もう一つの生命へと輪廻する事はない。
ここにおいて、以下の様に問う人はない:
「この二種類の諦は、全く異なるものなのではないか?」と。
しかしながら、我々は二者を一つに合する事は出来る。
我々は:「それは俗諦に基づくものか?それとも真諦に属するものか?」などとは言わない。
故に、それぞれが己自身の表現方式で、言論すればよく、どちらの諦もまた真実である。
故に、誰かが:「俗諦によれば、個人は存在しており、生命も存在している。」と言うならば、それを聞いている人間は、その言論を否定してはならない。というのも、それは世俗の言い方であり、物事の存在を明確に述べようとしているのであるが故に。
(6-2につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。ご協力、よろしくお願いいたします。<《Vipassanāハンドブック》(原題 Vipassanā Dipanī)Ledī sayādaw著 中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>