(1)苦聖諦:生老病死、愁い、悲しみ、苦、憂、悩、怨憎会、愛別離、所求不得苦及び5取蘊の苦。簡単に言えば、渇愛(集諦)以外に、三世間地の一切法は有為法であり、全て苦聖諦に属する。有為法とは、即ち、因縁和合の法であり、変化の法であり、因縁の影響を受けて変化するものであって、全て変化するものは苦である。5取蘊は苦である。というのも、5蘊(色受想行識)を私、私のもの、として執取する結果は、苦であるが故えに。
(2)集聖諦:ただ一法のみ。即ち、貪心所の渇愛(tanha)に相当する。仏陀は初転法輪の時に言った:「比丘たちよ。苦集聖諦とは何であるか?生まれ変わりが生じるのは、愛欲の為である。喜と貪を伴って同時に生起する。四方に愛楽を追い求めるが、即ちこれ欲愛、有愛及び無有愛である。」 ★欲愛は、6種ある:色愛、身愛、香愛、味愛、触愛、法愛である。欲楽への愛を、欲愛と言う。。。。。。。 ★有愛:注疏では以下の様に言う。3種の愛:常見と具生する所の有愛。常見とは、恒常不変の霊魂が存在すると信じる事。霊魂が、一つの生命から、もう一つ別の生命に転じると信じる。色界、無色界の生命への愛。ジャーナへの愛。。。。。。。 ★無有愛:断見に具生する愛。断見を擁する人は、人の死後、又来世があることを信じない。人は死ぬと何もかも無くなり、完全に存在しないと、考える。パーリ聖典の《諦分別》においては、又別の5法によって集諦を説明する。。。 ★愛欲。★10種の煩悩。★一切の不善法。例えば、四漏、四取、7個の潜在煩悩、10結……等。愛欲、10種の煩悩も含む。。。。。 一切の不善法と3個の善根(無貪、無瞋、無痴)。しかし、一切の状況の下にあって、なお、三善根が皆集諦であるとは限らない。ただ生死輪廻の中において、果報を生む事の出来る三善根は、その様である。例えば、持戒、布施は三善根を含み、かつ、集諦の中に集約される。というのもそれは果報を生み、輪廻を延長せしめるが故に。ソータパナ道心を証した時点で、37個の名法があるが、その中の無痴は、集諦の中に含まない。というのも、それは輪廻の断ち切るか、又は輪廻を短縮するが故に。 ★一切の不善法及び一切の、生死輪廻の中において果報を生じる事の出来る善法。不善が集諦であるだけではなく、善法も又、集諦である。というのも、善法も又果報を生じる事が出来、結果、輪廻を長引かせるからである。