Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

翻訳(中→日)<実用アビダンマ>(84ー18/19)(私家版)

何故、集諦(愛欲)が、苦痛の来源であるのか?例えば、台湾で水災が発生し、非常に多くの人々が死亡したとして、あなたは心がとても辛くなる。暫くして、その中の一人は己の友人であった。あなたは更に辛くなる。更に何日か経って、あなたの愛する血縁者が亡くなったことを知ると、あなたの苦痛は更に増す。執取のレペルに違いがある為、あなたの、この三者に対する感受は異なる。辛さが深ければ深い程、執着している事を表す。執着は苦痛の来源なのである。苦痛を感じる時、以下の様に思考する:「私は何故この様に辛いのか?」その原因を探し出し、貪愛から離れられない事を発見する。衆生は、時には、苦痛を取り除く為に、飲酒して憂さをはらすが、結果は、更に憂いが深まる。苦痛は果であり、果を滅する行為は役に立たない。因(貪愛)を滅しなければならないのである。因が消えれば、果も同時に滅し去る。論疏ては、以下の様な比喩がある。。。    ある人が、棍棒を犬とライオンに向けで投げて、攻撃した。二者の反応は同じではない。犬は棍棒に噛みつく。ライオンは棍棒を投げた人間を直接攻撃する。棍棒を投げた人間が死ねば、ライオンはそれより以降、棍棒で打たれる事はない。しかし、犬はずっと棍棒を噛み続ける。これは効果がない。というのも、犬を攻撃する人間は生きている以上、犬は棍棒で攻撃され続けるのであるから。。。            仏陀の教法は、ライオンが棍棒を持つ人を襲うのと同じてあり、修行者が苦を断じ除きたいのであれば、苦の因を退治しなければならず、苦の果に対応するのは無駄なのである。