Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

翻訳(中→日)<実用アビダンマ>(82ー9/10)(私家版)

(4)我論取:             即ち「身見」(sakkayaditthi)に執着する事。即ち、5蘊のどれか一つを「我(私)」又は「私のもの」と思う事。経典では、20種の身見が表記されている。5蘊の一つ一つには、それぞれ四種の観念がある。例えば、「色蘊を我であると思う。又は私は色蘊を擁していると思う。又は色蘊は私の中にあると思う。又は私が色蘊の中にあると思う。」受蘊、想蘊、行蘊と識蘊もまたこの様に思う。こうして、20種の身見が得られる。(《中部》経44等を参照の事)。色蘊は究極法である。観念的には身体と呼び、究極法では色蘊と呼ぶ。4大によって構成されている。もし、色蘊(身体)を己のものだと思うならば、執着が生まれる。ひとたび執着が生まれたたらば、色蘊が変化する時、苦痛が生じる。この種の執着は、恒常の考えを含み、その為、あなたはこれを私のものだ、恒常だ、楽しいものだと見做すが、ひとたび身体が変化すると苦痛に思うのである。故に、執着を取り去り、苦痛から抜け出す為に、常に、身体を無常、苦、無我として観じなければならない。身体にどの様な変化があっても、それが楽具だあっても、苦具であっても、如実にその無常、苦、無我を観じなければならない。受蘊も又同様である。変化は更に速い。我々の一生の内、経験する所の心の苦受、楽受、不苦不楽受もまた、それは私のもの、私の自我であると執着し易い。この様に、それらみ我、我のものと、執着してしまうと、それらの変化を観察できなくなってしまう。故に、受が生起するや否や、それらを因縁法と見做し、触から受が生まれるのであるから、因は無常であり、そうであるならば、果が常である訳がない。この様に身体を観じて、先に理論上で、身見を捨て去り、その後に実修して、一歩一歩前進するのが良い。理論上においても、この様に思惟する事ができない、作為もできないのであれば、無常生滅の法を会得するのは非常に困難てある。四種の取に関して、欲取は貪心所であり、その他三種の取は、邪見心所である。