南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」7‐2(260/430)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

彼らは、また、色法は苦であると照見する。

どの様な種の苦であるか?

行苦(saṅkhāra-dukkha)、すなわち、不断に生・滅に圧迫される苦である。

もし、ある物が、不断に生・滅の圧迫を受けるならば、我々はそれを楽である、と言えるであろうか?

不可能である。

五比丘は、容易に、色法の苦の本質を照見できたのである。

仏陀は続けて述べる:

「それが無常、苦であり、変化してやまないものであるならば:

『これは私のもの;

これは私;

これは私の自我(=これは己が探し求める本来の自己、の意)』

と見做すのは、適切であるや否や。」

「当然、不適切です、世尊」

色法は、生起するや否や、即刻壊滅する、故にそれらは無常である;

それらは生・滅の圧迫を受け続けており、故に苦である;

色法の中においては、コントロールできる、または主宰できる所の、一個の、安定した我、私は存在しない、故に無我である。

色法は、無常・苦・無我であるが故に、我々は以下の様に言うことはできない:

「これは私のものである;これは私である;これは私の私である」。

もし、色法の中に、一個の自我(=私、我)が存在するならば、色法は安定的、長期的に存在するはずである。

しかしながら、実際には、色法は生じるや否や、即刻滅する、故に、それらの中において、不変の我、私は無いのである。

これが、なぜ、五比丘が:「当然不適切です、世尊」と答えたのか、と言う答えである。

この回答は、彼らはすでに、色法の無我の本質を照見していることを意味している。

註釈の解釈によると、

「これは私のもの」と執着するのは、愛取(taṇhaggāha)であり;

「これは私である」と執着するのは、慢取(mānaggāha)であり;

「これは私の私である」と執着するのは、我取(attaggāha)である。

色法に対する愛取は、通常、色法は楽しさを齎すであろう、という錯覚から生じている。

あなたが色法が、不断に生・滅の圧迫を受けている、この種の苦の本質を照見する時、あなたは「これは私のものである」などとは言わないであろう。

こうしたことから、もし、あなたが何度も、色法をして「苦、苦、苦」と照見して、相当レベルに到達した時、愛取は消失する。

色法を苦として照見するのを「苦随観」(dukkhānupassanā)といい、それは「愛取」と相互に対立する。

色法の慢取に関しては、通常、驕慢に値する色法があると認めるのは、色法が恒常的な存在であるという錯覚から生じる。

あなたが色法を無常であると照見する時、あなたは「これは私である」と言わなくなるであろう、というのも、それは常に変化しているが故に。

あなたは色法の中において、「私」を見つける事はできない、そうであるが故に、あなたの驕慢は立脚点を失う。そして、あなたは色法の無常を観照する時、慢取は徐々に消失する。

この種の観法は、無常随観(aniccānupassanā)と呼ぶ。

それと「慢取」は相互に対立する。

色法に対する我取は、通常、色法の中において我が存在している、という錯覚から生じている。

あなたが色法を無常と苦であると照見する時、色法をば、恒常不変の我が存在している、などとは言わないであろう。

色法の無常の本質と、苦の本質を照見する事を通して、あなたは色法を無我として照見する。この様にして、我取は徐々に消失する。

この種の観法を無我随観(anattānupassanā)と呼ぶ。

この經の中において、仏陀は先に無常相を解説し、その後に苦相を解説し、最後にようやく無我相を解説した。

これは、無我相は、非常に理解しにくいからである。

その他の經において、ある時は、仏陀は先に無常相を解説し、その後に無我相を解説する;

ある時は、仏陀は先に苦相を解説し、その後に無我相を解説する。

本經においては、先に無常相と苦相を解説した後、ようやく、無我相を解説しているのである。

本經を聴聞した五比丘は、容易に、色法の無常・苦・無我を照見することができた。

經文は続けて以下の様にいう:

「あなたはどの様に思うか?

比丘たちよ。

受は常であるか、または無常であるか?・・・

想は常であるか、無常であるか?・・・

行は常である、無常であるか?・・・

識は常であるか、無常であるか・・・・」

五比丘は、徹底的に、五蘊を照見し、かつ、五蘊を無常・苦・無我として了知した。

ここにおいて、仏陀が彼らを教導した観禅の五蘊法門とは、以下の通りである:

「故に、比丘たちよ。

一切の色、過去のものであろうとも、未来のものであろうとも、または現在のもの、内在のもの、外在のもの、粗いもの、微細なもの、劣等なもの、殊勝なもの、遠いもの、近いものであろうとも、智慧でもってそれらを:

『これは私のものではない;

これは私ではない;

これは私の私ではない』

如実に、その様に見做さねばならない。」

(7-3につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等ほぼ原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijubunko.sakura.ne.jp/index.html

<中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>