<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
彼らは、また、色法は苦であると照見する。
どの様な種の苦であるか?
行苦(saṅkhāra-dukkha)、すなわち、不断に生・滅に圧迫される苦である。
もし、ある物が、不断に生・滅の圧迫を受けるならば、我々はそれを楽である、と言えるであろうか?
不可能である。
五比丘は、容易に、色法の苦の本質を照見できたのである。
仏陀は続けて述べる:
「それが無常、苦であり、変化してやまないものであるならば:
『これは私のもの;
これは私;
これは私の自我(=これは己が探し求める本来の自己、の意)』
と見做すのは、適切であるや否や。」
「当然、不適切です、世尊」
色法は、生起するや否や、即刻壊滅する、故にそれらは無常である;
それらは生・滅の圧迫を受け続けており、故に苦である;
色法の中においては、コントロールできる、または主宰できる所の、一個の、安定した我、私は存在しない、故に無我である。
色法は、無常・苦・無我であるが故に、我々は以下の様に言うことはできない:
「これは私のものである;これは私である;これは私の私である」。
もし、色法の中に、一個の自我(=私、我)が存在するならば、色法は安定的、長期的に存在するはずである。
しかしながら、実際には、色法は生じるや否や、即刻滅する、故に、それらの中において、不変の我、私は無いのである。
これが、なぜ、五比丘が:「当然不適切です、世尊」と答えたのか、と言う答えである。
この回答は、彼らはすでに、色法の無我の本質を照見していることを意味している。
註釈の解釈によると、
「これは私のもの」と執着するのは、愛取(taṇhaggāha)であり;
「これは私である」と執着するのは、慢取(mānaggāha)であり;
「これは私の私である」と執着するのは、我取(attaggāha)である。
色法に対する愛取は、通常、色法は楽しさを齎すであろう、という錯覚から生じている。
あなたが色法が、不断に生・滅の圧迫を受けている、この種の苦の本質を照見する時、あなたは「これは私のものである」などとは言わないであろう。
こうしたことから、もし、あなたが何度も、色法をして「苦、苦、苦」と照見して、相当レベルに到達した時、愛取は消失する。
色法を苦として照見するのを「苦随観」(dukkhānupassanā)といい、それは「愛取」と相互に対立する。
色法の慢取に関しては、通常、驕慢に値する色法があると認めるのは、色法が恒常的な存在であるという錯覚から生じる。
あなたが色法を無常であると照見する時、あなたは「これは私である」と言わなくなるであろう、というのも、それは常に変化しているが故に。
あなたは色法の中において、「私」を見つける事はできない、そうであるが故に、あなたの驕慢は立脚点を失う。そして、あなたは色法の無常を観照する時、慢取は徐々に消失する。
この種の観法は、無常随観(aniccānupassanā)と呼ぶ。
それと「慢取」は相互に対立する。
色法に対する我取は、通常、色法の中において我が存在している、という錯覚から生じている。
あなたが色法を無常と苦であると照見する時、色法をば、恒常不変の我が存在している、などとは言わないであろう。
色法の無常の本質と、苦の本質を照見する事を通して、あなたは色法を無我として照見する。この様にして、我取は徐々に消失する。
この種の観法を無我随観(anattānupassanā)と呼ぶ。
この經の中において、仏陀は先に無常相を解説し、その後に苦相を解説し、最後にようやく無我相を解説した。
これは、無我相は、非常に理解しにくいからである。
その他の經において、ある時は、仏陀は先に無常相を解説し、その後に無我相を解説する;
ある時は、仏陀は先に苦相を解説し、その後に無我相を解説する。
本經においては、先に無常相と苦相を解説した後、ようやく、無我相を解説しているのである。
本經を聴聞した五比丘は、容易に、色法の無常・苦・無我を照見することができた。
經文は続けて以下の様にいう:
「あなたはどの様に思うか?
比丘たちよ。
受は常であるか、または無常であるか?・・・
想は常であるか、無常であるか?・・・
行は常である、無常であるか?・・・
識は常であるか、無常であるか・・・・」
五比丘は、徹底的に、五蘊を照見し、かつ、五蘊を無常・苦・無我として了知した。
ここにおいて、仏陀が彼らを教導した観禅の五蘊法門とは、以下の通りである:
「故に、比丘たちよ。
一切の色、過去のものであろうとも、未来のものであろうとも、または現在のもの、内在のもの、外在のもの、粗いもの、微細なもの、劣等なもの、殊勝なもの、遠いもの、近いものであろうとも、智慧でもってそれらを:
『これは私のものではない;
これは私ではない;
これは私の私ではない』
と如実に、その様に見做さねばならない。」
(7-3につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等ほぼ原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijubunko.sakura.ne.jp/index.html
<中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>